2018.11.28(水)
でも、大工などの出職にも、いいところはありました。
例えば、雨の日などは、休みになったようです。
↑作り物ではなく、インドネシアで撮られた実写だそうです(ホンマか?)
梅雨のころは、毎日、家でゴロゴロできますよね。
ただ、日当ですから、仕事に出なければ、お金は入りません。
おかみさんは、腹立たしかったでしょうね。
明治、大正までは……。
小学校を卒業すると、すぐに奉公に出るのが普通でした。
12歳くらいで親方の元に弟子入りし……。
徴兵検査のある20歳までの8年くらいの年季奉公の間に、職人としての技術を身に付けたそうです。
↑これは、江戸後期のお話。千太郎は、7歳で奉公に出たそうです。切ないです。
この間はもちろん、親方の元に住みこみです。
親方の家の家事などもしながら……。
親方や年長の職人の仕事を、見よう見まねで覚えます。
年季が明けると、ようやく一人前とみなされ……。
初めて給金がもらえたそうです。
休日は、明治時代までは、「藪入り」の日だけ。
1月15日と7月15日の2日だけです。
↑初めて親元に帰った日でしょうか。
年に、たったの2日ですよ。
それも、朝、親方の元を発って……。
夕方には、親に伴われ、また親方の元に戻ったそうです。
聞いてるだけで辛くなりますね。
↑藪入りの日の夕方じゃないでしょうか。帰りたくないですよね。
大正時代からは、毎月1日と15日が休みになったそうです。
それでも、月に2日です。
でも、大工の弟子なら、雨とかで休めますよね。
親元には帰れなかったでしょうけど。
商家の方が、辛かったように思えます。
↑明治中頃の静岡の商家。中央が、主人と息子。ほかの3人の子供は丁稚です。
あと、商家では、いろいろ気働きを覚えなければならないでしょう。
こういうことが不得手な子は、必ずいたはずです。
その点、職人は、黙々と手仕事に励めばいいわけです。
でも……。
職人は、怪我が怖いです。
何の保証もありませんから。
「怪我と弁当は自分持ち」と言われました。
昔の人は、運不運で、まったく違った人生になったでしょうね。
例えば、雨の日などは、休みになったようです。
↑作り物ではなく、インドネシアで撮られた実写だそうです(ホンマか?)
梅雨のころは、毎日、家でゴロゴロできますよね。
ただ、日当ですから、仕事に出なければ、お金は入りません。
おかみさんは、腹立たしかったでしょうね。
明治、大正までは……。
小学校を卒業すると、すぐに奉公に出るのが普通でした。
12歳くらいで親方の元に弟子入りし……。
徴兵検査のある20歳までの8年くらいの年季奉公の間に、職人としての技術を身に付けたそうです。
↑これは、江戸後期のお話。千太郎は、7歳で奉公に出たそうです。切ないです。
この間はもちろん、親方の元に住みこみです。
親方の家の家事などもしながら……。
親方や年長の職人の仕事を、見よう見まねで覚えます。
年季が明けると、ようやく一人前とみなされ……。
初めて給金がもらえたそうです。
休日は、明治時代までは、「藪入り」の日だけ。
1月15日と7月15日の2日だけです。
↑初めて親元に帰った日でしょうか。
年に、たったの2日ですよ。
それも、朝、親方の元を発って……。
夕方には、親に伴われ、また親方の元に戻ったそうです。
聞いてるだけで辛くなりますね。
↑藪入りの日の夕方じゃないでしょうか。帰りたくないですよね。
大正時代からは、毎月1日と15日が休みになったそうです。
それでも、月に2日です。
でも、大工の弟子なら、雨とかで休めますよね。
親元には帰れなかったでしょうけど。
商家の方が、辛かったように思えます。
↑明治中頃の静岡の商家。中央が、主人と息子。ほかの3人の子供は丁稚です。
あと、商家では、いろいろ気働きを覚えなければならないでしょう。
こういうことが不得手な子は、必ずいたはずです。
その点、職人は、黙々と手仕事に励めばいいわけです。
でも……。
職人は、怪我が怖いです。
何の保証もありませんから。
「怪我と弁当は自分持ち」と言われました。
昔の人は、運不運で、まったく違った人生になったでしょうね。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2018/11/28 07:19
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士農工商
江戸時代は……。
職人にしろ、商人にしろ、ほぼ休みなく働いてたわけです。
もちろん、農民もそうでしょう。
しかるに!
身分社会の頂点に立つ武士はどうだったでしょう。
武士というのは戦闘員ですから……。
平和な社会では、ほぼ仕事がないわけです。
出勤時間は、10時ころ。
もちろん、勤務地はお城です。
仕事を終え、お城を出るのが……。
なんと!
14時。
滞在時間、4時間。
しかも、この間に、お昼も食べてます。
実働3時間。
3時間しかないのですから、その間、死に物狂いで働いたかと云うと……。
そんなことはありません。
仕事なんかないんですから。
ほぼ呆然と過ごしてたはずです。
ま、お城から帰ったら、武芸や学問に励むというのが建前でした。
でも、書見台に向かう姿を傍から見たら……。
論語を読んでるのか黄表紙を読んでるのかわかりませんよね。
武道は一応、声だけ出しておかなくてはなりませんね。
使用人に命じて、「キエーッ」とか声出しさせてたんじゃないですか。
さらに!
武士には、江戸勤めというのがあります。
藩主は参勤交代で、1年おきに江戸に住むわけです。
もちろん、単身で来るわけはありません。
大名行列で、大勢の家臣を連れてきます。
そうやって江戸についてくる家臣を、勤番武士と云います。
もちろん、初めて江戸に出たようなのばかりでは役に立ちませんから……。
江戸専従の家臣もいたそうです。
続きは次のコメントで。
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2. Mikiko- 2018/11/28 07:19
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士農工商(つづき)
でも、藩主について国元から来る家臣は、ほぼ初めての江戸勤め。
これ、一種の余得だったようです。
赴任手当みたいなのも付いたようですし。
早い話、国元でも仕事がないのに……。
江戸に来てすることがあるわけありません。
超ヒマ人です。
幕末の紀州藩の勤番武士、酒井伴四郎(さかいばんしろう)が……。
江戸での生活を克明に記した『酒井伴四郎日記(1860年)』というのが残ってます。
そこには、6月から11月の半年間の勤務日数が記されています。
6月は、午前だけの勤務が6日。
7月は、全休。
横綱みたいですが、もちろん怪我でもなんでもなく、ただ休みだったのです。
8月はちょっと働き、午前勤務が13日。
午前勤務というのは、だいたい8時から12時ころまでだったらしいです。
4時間ですね。
なお、伴四郎が江戸に来たのは、1860年6月。
その3ヶ月前には『桜田門外の変』が起き、世の中が騒然としてきた時期です。
でも、伴四郎の日記には、そうした政治がらみの記述は一切ありません。
ま、そういったことを書き残すのを憚ったということもあるのでしょうが。
日記に記載されてるのは……。
今日はどこそこに行って何を食べた、といったことばかりです。
この日記について解説した、『幕末単身赴任 下級武士の食日記(ちくま文庫)』は面白かったです。
↓お勧めします。
https://books.rakuten.co.jp/rb/14360190/
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3. 手羽崎 鶏造- 2018/11/29 00:29
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ワタシの父は、私生児でした。
その母(ワタシの祖母)が、とある名主の
家に奉公に出され、孕まされて帰ってきて
産んだ子が父です。
当時、よくあることと、出された時点で
一定の覚悟・想定はあったようですね。
映画で観た「嗚呼、野麦峠」にも似た
ようなシーンがありました。
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4. Mikiko- 2018/11/29 07:11
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その場合……
養育費のようなものが、奉公先から出たのでしょうね。
出なかったら、親が黙ってるわけはありません。