2018.6.7(木)
緩やかに下る道が山あいを抜けて、ようやく都へと続く屋並みが開け始めた。
街道が川と袂を分かつ辺りに、旅の水汲み場か、川べりの木陰に沿って数段の石積みが見える。
陣内伊織はふと足を止め、傍らの帯刀紫乃を見やった。
「もう京の街中まであと半日。ここで一息入れて参りましょう」
「はい」
紫乃は眩し気な眼差しで伊織の背中に続く。
二人は並んで竹筒に水を汲むと、土手に設えられた丸太の上に腰を降ろした。
背負った長刀が少々武骨には見えるが、その品のある器量も相まって、二人は道行く旅人がつい振り返るほど似合いの旅姿である。
しかしそんな視線をよそに、伊織の涼やかな眼差しはじっと水面に向けられたままであった。
「ではお蝶は虜になったばかりでなく、阿片で賊の仲間に取り込まれていると……」
「はい……、い、いえ、ですが……」
紫乃は伊織の胸の内を察して顔を上げた。
「私を助けようとして必死に敵に取り入っていたようにも……、ええ、そのようにも感じたのです………」
お蝶ともども賊の晒しものになったことを、さすがに伊織に伝えることは出来なかった。
勿論その時、賊の好奇な視線の中で女の操まで失ったことも。
「お蝶さんはもう伊織様の元には帰れないと言っておりました。そして別れ際に見せたお蝶さんの目は、伊織様を助けてと私に訴えているように思えて仕方ありませんでした」
「私を助ける………?」
紫乃は伊織に頷いた。
「若様を無事お城に連れ帰るという、この旅の一番の目的はもう果たされました。おそらくお蝶さんは、私たちはこのままもう江戸に帰ってくれと……」
目を見開いた伊織を制して紫乃は続ける。
「たぶんお蝶さんは、もう自分は死んだと伝えてくれ、そう言いたかったのかもしれません……」
「ば、ばかな!!」
そう叫んで伊織は立ちあがった。
「私がお蝶を残して江戸に帰れるとでも!」
「分かっております」
いきり立った伊織の横に紫乃も立ち上がる。
「心から結びついた女同士の情愛、伊織様がお蝶さんを残したまま江戸にお帰りになるなど、私も考えておりません」
「紫乃さん……」
伊織は紫乃の透き通った瞳をじっと見つめる。
「そして伊織様を江戸に帰すための嘘をつけなかったこと、私はそれがお蝶さんに対して申し訳なく……、胸が締め付けられる思いです」
そう言い放った紫乃に、思わず伊織は目を閉じて頭を下げた。
「し、紫乃さん、かたじけない………」
紫乃はその細面に微かな笑みを浮かべる。
「伊織様、もうどうかお顔をお上げください。それよりこの上は、いよいよ京の三笠屋へ……」
その言葉に顔を上げると、伊織は首を横に振った。
「いいえ紫乃さん。ふとしたご縁から何物にも代えがたい恩義をいただきましたが、あなたはこの先の橋を渡り、川向こうの道へお進みください」
「伊織様……!」
紫乃は伊織の顔を見つめた。
「そして橋を渡り終えるまでにはこの一件を全てお忘れください。そうすれば琵琶湖の北を廻って江戸まで、何のことは無いのどかな街道が続いております。この度は一段と武芸の修行も積まれたはず。会津に戻ってその成果を披露されれば、お家もお喜びのことでしょう」
その言葉に今度は紫乃が目を怒らせる。
「それは出来ません。私もお蝶さんの為に都へ出向きます。もしそうでなければ、伊織様も私と一緒に江戸への道をお進みください」
「し、紫乃さん。どうか私の言うことを……」
「いいえ!」
紫乃は川に向かって一歩足を踏み出すと、背負った長刀の紐を締め直す。
「まだ敵は首領ほか手練れ四人が残っております。あなたを助けたい一心で私を逃がしたお蝶さんの気持ちに反して、私が帰路に就き伊織様一人を行かせる訳には参りません」
「し、しかし………」
紫乃は川の流れをじっと見つめた。
「それに先ほどお話ししたように、ほんの一日ではありましたが、匿ってくれた恩人のおかげで伊織様に会うことが出来ました。その舟の女は私の武運を祈って送り出してくれたのです」
伊織も紫乃の眼差しに沿って、その先の川景色に目を向ける。
「いつの日かその人が念願を適えて出した店に、私も使命を果たして訪れねばなりません。私の長刀の朱色の房を下げた会津の店に……」
「紫乃さん………」
紫乃は伊織のつぶやきに振り返った。
「さあ、伊織様参りましょう。時が惜しゅうございます。阿片は日一日と、お蝶さんの身体ばかりか心も蝕んでいくに違いありません。一刻も早くお蝶さんを賊から救い出さねば」
紫乃を見返す伊織の目がうっすらと潤む。
「何と申し上げてよいか………、貴方の気持ちには礼の言葉もありません。敵の目的は阿片を使った金と支配、気持ちだけはお蝶を助けようとする私たちの方が勝っているはず」
「はい」
力強さを増した伊織の言葉に紫乃は深く頷く。
「機を見て争わずに助け出せればよいですが、場合によっては切り合いになることも避けられません」
「はい、覚悟しております」
伊織は紫乃の真摯な眼差しに頷いた。
「では………」
腰の大小を差し直すと再び紫乃に顔を向ける。
「参りましょう」
頷き合った二人は、再び土手を上がって街道へと足を進めた。
「は! ……あれは……」
道へ上がった途端、前方を見やった伊織がつぶやいた。
まだ一丁ほど先に小さくではあったが、数台の荷車を引いた一団が視野に入ったからである。
「こっちへ……」
伊織と紫乃は、道を挟んで川と逆側の斜面をよじ登っていく。
山の中腹まで上がると、藪に身を潜めて眼下を見下ろした。
「やはり………」
一団が近づくにつれ、首領の鷹に並んで色浅黒く目つきの鋭い女、その後ろには若い双子の姿も見え始めた。
「お、お蝶!」
思わず伊織は小さな声を上げた。
三台の荷車の後ろから、支那服の女とお蝶の姿が現れたからである。
じっと見つめる伊織の肩に紫乃は優しく手を添える。
「きっと次の荷受のため小浜に向かう途中です。三笠屋であの女たちの話を聞きました」
「小浜に……」
伊織と紫乃が見守る中、賊も先ほどの水汲み場で一休みする様子である。
「よし、では先回りして小浜で待ち、向こうで救い出す手筈にしましょう。このような道中では近づくことも難しい」
「ええ、分かりました」
眼下で各々が水をくむ中、支那服の女とお蝶も並んで土手に腰を降ろした。
支那服の女は太めの身体のせいか、幾度も竹筒を口に運んで水を飲んでいる。
「あ!!」
「伊織様……」
紫乃は声を上げた伊織の肩先を掴んだ。
おもむろに支那服の女が口移しでお蝶に水を飲ませたからである。
驚いたことに、お蝶は嫌がりもせず白い喉を波打たせてその水を飲み下している。
支那服の女はそのまま立ち上がると、手を引いてお蝶を近くの木の陰に誘った。
はっきりとは見て取れないが、口でも吸い合っているのか、抱き合った二人の身体が木の幹から見え隠れしている。
伊織は息を詰めると、その光景から目を閉じた。
「伊織様、さあ参りましょう……」
紫乃は伊織の両肩に手を添えた。
下に気付かれぬよう二人はそっと藪から身を起こす。
そして先回りで賊を待ち受けるべく、小浜に向けその場を後にしたのである。
「桔梗か……?」
布団の上に座ったまま、羅紗は桟敷の外に目を向けた。
閨の白い襦袢に身を包んだ女人が、框の下にひっそりと控えている。
ただ普通の女官と違うところは、両手をついた身体の前に大小の刀を置いていた。
「羅紗様が閨でお休みの時、私も隣室に休んでおります。これからは身の回りのお世話ばかりでなく、警護の任も合わせて仰せつかっておりますが故、どうか何なりと御用をお申しつけくださりませ」
両手をついたまま口上を述べると、大石桔梗はゆっくりとその顔を上げた。
蝋燭の灯で肩先まで垂れ落ちた黒髪が艶々とした輝きを放っている。
「うむ。もう初音から委細は聞いておる………」
そう告げたまま、羅紗は桔梗の顔をじっと見つめた。
「羅紗様、なにか………?」
「い、いや……」
顔を傾けて窺う桔梗に、羅紗は夢から覚めたように睫毛を瞬かせた。
「お前、化粧をしたのか?」
「は、はい、初音様にご指導いただきましたが、慣れぬことで、御付きの女官として多分に見苦しいことと存じます………。引き続き修練して参りますが故、いましばらくお許しくださりませ」
「い、いやそうではない」
急いで言葉を継ぐと、羅紗は桔梗と正対に向き直る。
「これまで武官として凛々しい姿を眩しく見ておったが、まさか女人としてこのように美しいとは………、不覚にも思いもつかなんだ」
「ら、羅紗様……」
思わず目を伏せた桔梗の白い顔が、心なしか燭台の灯に薄赤く染まっていく。
事実、凛々しい少年の様な顔立ちに女の色気が溶け入って、羅紗はその美しさに心が震えるのを覚えた。
しかし羅紗は二三度目を瞬かせると、改めてその背筋を伸ばして口を開く。
「ではこれからよろしく頼みます。だがお役に就く前に、私はお前に聞きたいことがあるのじゃ」
桔梗は顔を上げて、問いかける羅紗の顔を見つめた。
「国境で伊織様が若をお連れになった時、その周りにお蝶さんの姿が見えなかった。何事も無ければよいが、お前そのことについて何か知らぬか……?」
羅紗を見返す桔梗の目に、再び侍の鋭い輝きが宿った。
「それでございますが、実は私も今宵それをお話しせねばと思っておりました」
「お蝶さんの身に何かあったのじゃな?」
顔色を変えた羅紗に桔梗はゆっくりと頷いた。
「伊織様の話では、お蝶さんは若と伊織様を逃がすため自ら賊の虜になったとのこと……」
「な、なんと!」
思わず身を浮かせた羅紗に桔梗は続ける。
「若を送り届けた後、伊織様はお蝶さんを賊の手から助け出すため、賊が身を寄せている京の三笠屋という薬問屋へ向かわれました」
「な、なんということ………」
羅紗はきつく両手を握り合わせた。
「この度の一件は、大陸から御禁制の阿片持ち込みも絡んでおり、小浜の渡世一家も合わせて相当数の敵が動いております。それに伊織様と最後にお別れした日にちからして、もういよいよ正念場かと……」
「桔梗」
桔梗の前にはもう居住まいを正した羅紗の姿があった。
「お前はお庭番に伝えて、お蝶さんの救出に手を貸してもらうのじゃ。幸い当藩のお庭は伊賀者で、京においても何か手が打てるやもしれぬ。私は丹後にお願いして阿片一味の征伐に手を貸していただく」
その言葉に桔梗は深く頷いた。
「承知いたしました。それに丹後は阿片の一件に気付いているはず、すでにお庭の甲賀者が若様救出に関わっております。無念にも……、その内の一人は犠牲となり命を落としてしまいましたが………」
その言葉尻を震わせた桔梗は、両手を握り締めて唇を噛んだ。
「そうであったか……」
そんな桔梗の様子を見ながら、羅紗は小さいつぶやきを漏らした。
「ではもう今夜は休みなさい。明日の朝一番から手筈を進めるのじゃ」
「いえ、羅紗様。忍びに昼も夜もございません。私はこれからお庭番の詰め所に向かい、早速手の者に動いてもらいます」
「そうか」
桔梗の言葉に羅紗も目を輝かせた。
「では書き物の用意をしてここにも来るよう伝えなさい。早速丹後への送り状を書いて託します」
「承知しました。では、私はこれにて……」
桔梗は立ちあがって階下への階段へと向かう。
「桔梗」
背中の声に、桔梗は桟敷の出口で振り返った。
「桔梗、すまぬ………」
そうつぶやいた羅紗に向かって、麗しい女人の顔がほころぶ。
再び頭を下げた大石桔梗は、そのまま桟敷の外へと姿を消した。
その背中が下へ消えたのを見届けると、羅紗はゆっくりと外に面した欄干に歩み寄る。
じっと見つめる外の闇に、ぼんやりと伊織とお蝶の顔が浮かんだ。
“伊織様、お蝶さん、どうかご無事で………”
秋の夜寒に両手を握り合わせて、羅紗は心の中でそう祈ったのである。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2018/06/07 07:22
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桟敷
羅紗の寝所の構造について確認したいことができ、作者の八十郎さんに連絡しました。
結果、わたしの想像どおりの構造だったので、安心したところです。
↓本編半ば過ぎの文章です。
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「桔梗か……?」
布団の上に座ったまま、羅紗は桟敷の外に目を向けた。
閨の白い襦袢に身を包んだ女人が、框の下にひっそりと控えている。
ここで気になったのが、「桟敷」と「框」という単語。
「桟敷」を『三省堂大辞林』で引くと、以下のとおり。
①祭りや相撲などの興行物を見るために高く作った見物席。さんじき。
②劇場で,平土間に対して左右に一段高く設けた席。桟敷席。
早い話、高くなってるわけです。
続いて、「框」(同じく『三省堂大辞林』)。
①戸・窓・障子などの周囲の枠。
②床の間や床などの端にわたす化粧横木。上がり框・床框・縁框など。
これは、ちょっとわかりずらいですね。
↓の『建築用語集』での説明に、図が入ってます。
http://www.kenchikuyogo.com/111-ka/029-kamachi.htm
早い話、段がついているところの部材です。
何が言いたいかというと……。
羅紗の寝所は、外の廊下より高くなっている。
八十郎さんからも……。
「寝所の床は外の廊下より一尺から尺三寸ほど高い感覚で書いておりました」とのご返事をいただきました。
バリアフリーとは正反対の構造であり……。
歳を取ったら辛いんじゃないですか。
大きなお世話でしょうが。
わたしは今、畳に布団を敷いて寝ています。
もちろん、桟敷のように高くなってはおりません。
これから暑くなるにつれ寝相が悪くなるので……。
落っこちる心配のない寝床は、とても安心です。
ときには、布団を外れて畳の上で寝てることさえあります。