2018.5.10(木)
出入りの商人だろうか、各々背袋や天秤棒を担いだ男女が数名、外堀の石垣上に佇んでいる。
一人の女商人が城内に向けて走り出したのを合図に、商人たちは急ぎ足で城下へと姿を消した。
程なく慌ただしく走り込んで来た侍たちは呆然と辺りの草原を見回す。
「こ、これは……」
お庭番の報告通り、警護の侍三人と一人の腰元が草原に転がっていた。
毒を盛られたのか、全員が食べ物の散乱した中に苦悶の表情で絶息している。
「若とあの清国人の姿がない。すでにお庭番は城下に散った。城内に居る者、非番で居宅の者全て集めて、我々も藩内を隈なく探し回るのだ」
引き続き城の中から駆けつける家臣たちに合図をすると、一同は城下へと続く下り坂を駆け下りて行った。
昼下がりの好天が嘘のように、暗い雲が空を覆い始めた。
足軽たちが城内に亡骸を引き上げるや否や、ぽつぽつと雨粒が地面に音を立て始める。
次第に強まりゆく雨が植込みを叩くなか、石垣の入隅で腰まで伸びた藪が不自然に揺れ動いた。
内堀の排水口か、雑草を透かして石垣の根元に尺五寸(45㎝)四方ほどの小さな穴が見えて、中から支那服に身を包んだ春蘭が這い出て来た。
用心深く辺りを窺うと、空堀の外が見渡せる石垣の先端へと向かう。
「うふふ、やはり私たちの様に揉まれていない日の本の田舎侍は容易いものね……」
余裕の笑みで石垣下の駕籠かきに合図を送ろうとした時、
「やはりお前だったか……」
背中のつぶやきに春蘭は振り返った。
降りしきる雨の向こうから、大刀を杖代わりについた若侍が射貫く様な視線を向けていた。
「どうやら、皆の様に素早く動けなかったのが功を奏したようだ」
大石桔梗は鞘の房を噛んで、眉を寄せながら右手で大刀を抜き取いた。
落ちた鞘が地面に音を立て、左手が背負うた小刀を引き抜く。
「当藩士、大石桔梗と申す。若はいずれに?」
悲壮な面持ちで問う桔梗に、春蘭は不敵な笑みを浮かべた。
「二刀流……、生きていたのですね。しかしその様子では、かなりの深手を負っているよう……。もうこれ以上無駄な忠義を立てぬ方がよろしいのでは?」
桔梗は凛とした眉を寄せて大小を目の前に構えた。
「下の仲間に合図を送ろうとしていたところをみると、若もこの周りにおられるのだろう。
大人しく若を引き渡さねば、この剣にかけて取り返すまでだ」
斜に構えた野太い刃を本降りとなった雨のしずくが伝い落ちる。
「うっふふふ、いよいよ侍とは愚直なもの……。その武骨な刀をまともに振れるようには見えませんが、では、手早くお相手しましょう」
「侍を伝えるにはまだ未熟だが、今はただ、若をお助けするばかりだ」
その身体を春蘭に正対させると、桔梗は刀を掴んだ両手をゆっくりと下げた。
そのまま大小を八の字に構えた身体から、何故か力みが抜けていくようにさえ見える。
“ふうん……”
挑発に動じぬ相手に、春蘭の顔から笑みが消えた。
「いずれにせよ、その身体では私に傷ひとつ付けることは出来ません」
春蘭は肩越しに背袋へと両手を上げる。
上に突き出た黒いものを掴んだ次の瞬間、雨を切り裂く空気音が巻き起こった。
“鞭……?”
桔梗が目を見開いた先で、各々十尺(3メートル)ほどもあろうか、春蘭の両手に握られた黒い鞭が地面にうねっていた。
ゆっくりと踵が地面を離れて、春蘭のしなやかな身体が宙に浮き上がる。
両手の鞭を地上に遊ばせながら、まるで踊りでも踊るかのように、桔梗を中心にその動きが円を描き始めた。
長い足を一歩円の中心に踏み出した時、
“ん……!”
思わず春蘭はその爪先を止めた。
地面を向いた桔梗の切っ先が微かに上向いた時、静けさの中から突然マムシが飛びかかる様な殺気を覚えたからである。
「なるほど……。気で壁を作るとは、伊達に噂になってはおられませんね。しかしその身体でどこまで威勢を張れるか……、私も気を取り直して参りますよ」
大きく開いた股割れから長い右足が覗いた時、春蘭の上半身が鋭くしなった。
流れるような華やかな動きに反して、その後から稲妻が空気を切り裂いてくる。
一瞬桔梗は右手の大刀を身体に引き寄せた、的を外された鞭が右肩先を襲う。
“く!!!”
皮を叩く湿った音と共に羽織が破れて、桔梗は激しい痛みと共に生暖かい血が右手を伝うのを感じた。
“柔に身を任せた先に勝機が……”
一瞬猿飛の言葉が桔梗の脳裏をよぎった。
息つく暇もなく地を這って襲い来るもう一本の鞭を、桔梗は飛び上がって交わす。
顔を歪めて着地した桔梗を再び鞭が襲って、今度は右手の大刀にきつく絡み付いた。
得物を制そうと春蘭が右手の鞭を引き絞った途端、桔梗はその春蘭に向けて突進した。
「あ!!」
一瞬虚を突かれた春蘭は、慌てて左手の鞭を振るう。
無情にも片足を鞭に絡まれた桔梗は、濡れた地面に水しぶきと共に転がった。
春蘭は大きく右手を振るって桔梗の大刀を背後へ飛ばす。
「さあ、もう先が見えましたね。その身体と短い刀一本で、私の二本の鞭が防げますか?」
唇を噛んで春蘭の言葉を聞きながら、桔梗は足から外した鞭をきつく右手に絡み付ける。
「ふふ、なるほど。自ら鞭に絡んで一本を失くしたつもりですか。いいでしょう、一本になった者同士、改めて参りますよ」
再び春蘭の左手がしなって、風を切った黒い稲妻が桔梗を襲う。
身を丸めた桔梗の背中で絹を引き裂く音が上がった。
裂けた衣の間から白い肌が覗き、みるみるその上に赤い血の道が滲み出る。
続けて襲い来る鞭が、転がって逃げる桔梗の身体を二度三度と襲った。
泥の混じった雨水に汚れ、裂けた着物がぼろ布と化していく。
「いかに気位の高い侍と言えど、こうなると哀れなものですねえ。うふふふ……」
そう嘲笑を漏らした春蘭に桔梗は顔を向ける。
「く……こんなことでは私のとどめは刺せんぞ……」
桔梗は歯を食いしばって立ち上がった。
右手の鞭を引き寄せながら、桔梗の左手の小刀が弧を描く。
危うく横に身を避けた春蘭は、桔梗の追撃を二間(3.6メートル)の距離で交わし続ける。
互いに鞭を掴み合ったままの近距離では、もう一方の鞭を振るうことも難しいのである。
いよいよ石垣の先端が背中に迫った時、とうとう春蘭は桔梗に掴まれた右手の鞭を手放した。
怪我で動きの遅い桔梗の太刀を交わすと、がけっぷちで長い足を高く振り上げる。
その足が踵落としに桔梗の左手を襲うと、蹴り落された小刀が石垣の下に落ちて行った。
「さあどうやら勝負あったようですね。武器が残ったのは私の方です」
余裕の表情を向ける春蘭を、桔梗は悲壮な面持ちで睨み返す。
「まだ勝負はついておらん。命あるうちは、私の役目は若を取り返すことだ」
「ふ……」
その言葉を鼻で笑った春蘭は、桔梗の背後へ目を向ける。
石垣から空に手を差し伸べる様に、一本の太い松の枝が空堀の上に伸びていた。
「武士は辱めを受けるより死を選ぶとのこと……。あなたには、それにふさわしい最期を迎えていただきましょう」
次の瞬間春蘭の左手が一閃して、その鞭が桔梗の首に巻き付いた。
そのまま桔梗の身体を引き倒した隙に、二本の鞭を素早く結び合わせる。
必死に起き上がった桔梗が我が身もろとも相手を崖下に落とそうとした時、春蘭のしなやかな身体が崖から空中に舞い上がった。
松の枝に鞭がかかって、その下に春蘭の身体がぶら下がる。
「ぐうう!」
桔梗は足を踏みしめると、首を締める鞭を両手で掴んでうめきを上げた。
もう相手との距離を縮めて攻めを殺す手は使えない。
近付けば崖から落ちて首を吊ることになってしまうのだ。
雨でぬかるんだ土で、崖に向かってずるずると足が滑る。
「あっははは、さあもうあと少し」
笑い声とともに春蘭が大きく前後に身を揺らすと、桔梗の身体がぐいぐいと崖に引き寄せられていく。
深手を負ったせいで、右手にはほとんど力が入らない。
首を締め付ける鞭に逆らえば逆らうほど、意識が遠のいていくような気がする。
“くう……ら、羅紗様……”
桔梗は思い切って鞭から左手を放した。
途端に崖に向かってずるずると身体が滑っていく。
鞭を掴んだ春蘭を見つめながら、桔梗は左手を懐に差し込む。
朦朧とした視界に崖が迫った時、桔梗は必死に小柄を掴んだ左手を振った。
「きゃああ~~!!」
ふと鞭の力が緩んで、春蘭の悲鳴が下方に消えていく。
崖の手前で仰向けに倒れた桔梗の顔を、秋の冷たい雨が叩いた。
「若!」
狭い排水溝の奥に、頭を外に向けた鶴千代が横たわっていた。
桔梗は必死でその身体に左手を伸ばす。
“ふう……。眠らされているだけだ”
若の首筋から桔梗の手に、温かい命の鼓動が伝わって来た。
“よし。城から助けを呼んでこよう”
今の桔梗の身体では、とても若を担いで戻ることは出来そうにないからである。
やっと身を起こした桔梗は、城に向けてよろめきながら歩き始めた。
途中泥にまみれた鞘を拾い上げた桔梗は、飛ばされた大刀を求めて周囲に視線を巡らす。
少し離れた石垣の根元に、地面から湧き出る様に立ち込めた白い霧を見つけた。
誘われるように桔梗はその霧に近付いて行く。
“こ、これは……?”
石垣の根元に尺角(30㎝角)ほどの城の礎石があり、その横で鉄をも噛む胴田貫の大刀が真っ二つに折れていた。
白い霧に足を踏み入れると、桔梗は折れた大刀を拾い上げた。
そして何故か何者かの声を聞く様に、辺りを見回したのである。
「女官に? 大石殿、何故そのような……」
初音は目を見開いて桔梗の顔を見つめた。
「その時、私は再び父上の声を聞いたのです」
「左内様の声を……?」
桔梗は訝し気な目を向ける初音にゆっくりと頷いた。
「はい……。白い霧が父上と蔓の顔になって、どこからか声が聞こえて参りました」
初音は言葉もなく桔梗の顔をじっと見つめる。
「その声が、剣を捨てて城にお仕えせよ、と……」
「剣を捨てお城に……」
桔梗に傾けていた上体をゆっくりと起こして、初音は静かに目を閉じる。
「ご家老様がそう申されましたか……」
しばらくの沈黙の後再び目を開けた初音は、これまで見せた事の無い様な穏やかな表情を浮かべていた。
「やっと私も国に帰る時が参りました」
桔梗は大きく目を見開いた。
「い、今何とおっしゃいました?」
初音は桔梗に笑みを向ける。
「私の思い描いていた方が、このように近くに居られたとは……。十五で羅紗様にお仕えして以来三十年。これからは桔梗様、羅紗様をよろしくお願いします」
「そ、そんな!」
桔梗は初音に驚愕の眼差しを向けた。
「何をおっしゃいます! 初音様にはこれからも末永く、羅紗様や私共をご指導いただかねば……」
初音は静かに首を横に振った。
「いいえ。私は羅紗様を思うがあまり、曲者の罠に落ちてしまいました。もうその時が参ったのです。子供の頃を思い出して時折夢に見た、ふるさとの野山に鍬を振るう時が……」
初音を見上げる桔梗の目が、みるみる赤く潤んでいく。
「女官ではなく……、いえ初めは女官でも構いませぬ。昼夜を問わず、お近くで羅紗様をお支えください」
「は、初音様……」
桔梗の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「羅紗様には殿方ではなく、あなたの様に強い女の方が必要なのです。桔梗様、私の一生の願い、どうかお聞き届けください」
そう訴えて両手をついた初音に、桔梗も涙ながらに頭を下げたのである。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2018/05/10 07:26
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石垣の入隅
本文序盤に、↓の文章があります。
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次第に強まりゆく雨が植込みを叩くなか、石垣の入隅で腰まで伸びた藪が不自然に揺れ動いた。
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わたしはこの「入隅」を知りませんでした。
ネットで調べてわかったのですが、一言では言い表しがたく……。
本文に注釈として入れたら煩くなってしまうと思ったので、ここで書きます。
入隅の読みは、“いりずみ”だそうです。
てっきり“いりすみ”だと思ってました。
入隅の反対が、出隅(でずみ)と云います。
「隅」というのは、「角(かど)」のことです。
では、入隅と出隅が何かと云うことですが……。
肘を直角に曲げてみて下さい。
このときの、肘の内側の直角が「入隅」。
逆に、肘の外側の直角が「出隅」です。
度数で表すと、「入隅」が90度で……。
「出隅」は、270度になりますね。
↓この用語は今も、大工さんなどの間では使われてるそうです。
http://www.j-proof.co.jp/dictionary/662/
八十郎さんは建設業界の方で、設計もなさるそうなので……。
自然と使われたのかも知れませんね。
さて、本文に戻ります。
「石垣の入隅」とは、どういうところか。
石垣には、直線だけではなく、折れ曲がって造られてる箇所があります。
飛び出た角が「出隅」、内側の角が「入隅」ということでしょう。
↓こちらの図が、わかりやすいです。
https://ameblo.jp/kenshin-sahashi/image-12350715545-14126654447.html