伊織と鶴千代が茶店を出て二日目の午後。
初秋の穏やかな日和を二人は丹波の国境に迫っていた。
昨日はただ山道を登り降りするだけの道程ではあったが、過ぎて見ればかけがえのない一日だったような気がする。
母上の羅紗があまり料理が得意ではない事。
御付きの初音ばあが内緒で町屋の駄菓子をくれること。
打って変わって饒舌になった鶴千代の話に、度々伊織は声を上げて笑った。
そして何より、夜露を避けて岩陰に二人身を寄せ、寒い夜更けに綿入れにくるまって眠った夜。
大事なお役目さえ忘れて、伊織はその時が止まることを願った。
こじんまりとした峠越しに、まだ沈み切らぬ太陽が二人の顔を照らす。
「もうあの峠あたりが国境かと思われます。丹波に入って今宵の宿を求めれば、明日はお城までたどり着くかと……」
「そうか、いよいよだな」
行く手は登りを強めながら大きく左に弧を描いている。
きつい左上がりからようやく道が真っ直ぐ峠を指した時、
「あれは……」
伊織は小さく呟いてその足を止めた。
国境の関所はいつもと趣を異にしていた。
門の左右に続く格子塀の上から、何やら白くはためくものが見える。
「どうしたのじゃ……?」
不安そうに見上げる鶴千代に伊織は笑顔を向けた。
「まあいずれにせよ、もう少し近づいてみましょう」
前後に甲賀衆、関むこうでは伊賀衆が見守る中、身に危険が及ぶような出来事が待っているとは思えなかった。
やがて門まで半町の近きに足を運ぶと、伊織たちの姿を認めた門番が中に走り込む様子が見える(※半町≒55メートル)。
とたんに数本の白い幟が揺らめいたかと思うと、中にうごめく人影が見る間に両脇に列を作り始めた。
「これは……」
伊織と鶴千代は足を止め門の中を凝視する。
やがて両脇に整然と控えた侍たちの
その姿が門に近付くにつれ、十年の時を越えて伊織の脳裏に面影が甦ってくる。
“羅紗様……”
再び会う日が来ようとは。
自分に命を授けた女性を伊織はじっと見つめた。
「鶴千代様」
伊織は鶴千代の横に身を低めた。
「少し早ようはなりましたが、私はここでお別れでございます」
「なぜじゃ!?」
そう叫んだ鶴千代の顔を伊織はじっと見つめる。
「ここからはお一人で、どうか鶴千代様ご自身の足で国境をお越えください」
「いやじゃいやじゃ、お前も母上に会うて一緒に国元に参るのじゃ!」
「鶴千代様!」
伊織はむずがる鶴千代の肩に両手を添える。
「私はこれから大事な人を助けに参らねばなりません。その人は私や鶴千代様の為に自ら囚われの身になったのでございます。それでも若は私に国元へ一緒に参れと申されるのですか……?」
鶴千代の目からみるみる大きな涙がこぼれ落ちた。
細かくしゃくり上げながら首を横に振る。
「有難うございます。母上がお待ちです。どうかお一人で、向こうへお渡り下さい」
鶴千代は唇を噛んで右手で涙をぬぐった。
「お前もきっと無事で、また会いに来るのだぞ……」
たまらず伊織は懐から手拭いを出して鶴千代の涙を拭いた。
「またお会い出来るかどうかまだ分かりませんが、どこにおりましても……、私はあなたの幸せを祈っておりますよ」
潤んだ目で鶴千代はうなづく。
「さあお国へお入りください。私がここで見ておりますから……」
振り返って歩き出した若を見ながら伊織は立ち上がった。
門の内二間ほどに控えた羅紗の面前で、鶴千代は静かに丹波の地に足を踏み入れた。
待ちかねた様にきつく抱き合う羅紗と鶴千代の姿を伊織は静かに見つめた。
しきりに何かを問いかける鶴千代に頷くと羅紗はゆっくりと立ち上がる。
思いを込めた眼差しを伊織に向けて、羅紗は鶴千代の肩を押すようにして深々と頭を下げた。
自分も深く頭を下げて、伊織はおもむろに再び来た道を戻り始める。
来た時とは逆に、道は大きく右曲がりに下っている。
「母上!!」
後ろからの鶴千代の叫びに一瞬伊織の足が止まった。
しかし伊織は益々足を速めて、道なりに林の向こうへ歩き去っていく。
見えなくなる背中に、再び羅紗ともども居並ぶ家臣一同は深々と頭を下げた。
大きく道が折れるにつれ背中の視線も届かなくなり、周りの林からみるみる忍びの気配が消えていく。
伊織は再び一人になった寒さを身の内に感じた。
しかし気丈に前を見据えたその目からは、いまだ次々と熱い雫が流れ落ちていたのである。
一瞬息を詰めたお蝶は様子を窺う美津に首を横に振った。
「知らないね、あんな女……」
「へえ、そうかい……。まあいい、入んな」
障子の中では沙月女と春花秋花姉妹が膝を詰めていた。
「もう外も薄暗くなったんで先に始めてるよ」
人懐こい笑みを浮かべると、秋花は丸い膳の上の徳利に手を伸ばした。
「何言ってるんだい。鷹が大旦那の付き合いで留守にしてるんで、あんたたちまだ明るいうちからやってるんじゃないか。まったく……」
渋い顔で腰を降ろした美津も、店からのもてなしだろうか、膳の上の渋いぐい呑みを秋花に突き出す。
「それで……? お蝶はなんだって……?」
淡い黄金色が器に満ちるのを見つめながら、春花が美津に問いかける。
「それがさあ……、まあお蝶、あんたもこっちに座んなよ」
一瞬眼差しを移ろわせたお蝶だったが、ふてくされた様に美津と秋花の間に座り込んだ。
「知らないよ、あんな女……。あたしがあんなお武家のお嬢様に縁があるわけないじゃないか」
「へえ、そうかねえ……」
春花はじっとお蝶の目を見つめながら猪口を差し出す。
「あんたが伊織と切っても切れない仲なのは分かってる。下賤なあたいたちと違って、お武家の知り合いがいても不思議じゃないと思うけど……」
「知らないったら知らないんだよう! あんな小娘どうなろうと、あたしの知ったこちゃないよ」
お蝶は声高にそう言い放つと春花の手から猪口をひったくった。
「そりゃあ都合がよかった」
黙ってやり取りを聞いていた沙月女が、右手の徳利をお蝶の猪口に差し向けた。
「あんたも紫乃さんもね、これから身内になる最後の橋を渡ってもらいたいんだ」
「最後の橋って……」
沙月女の酌を受けながら、お蝶は不安げなつぶやきを漏らした。
「蓬莱や飛燕がいなくなって、あたしたちも腕の立つ仲間は欲しい。あの紫乃という女、良家のお嬢様じゃあるけど、あたしの見たところ腕は一流だ……」
「ふうん、じゃあ何がそう不満なんだい……」
「ふふ……」
あおった杯を再び突き出すお蝶の態度に、沙月女は思わず笑みを漏らした。
「あの女はまだ色事の覚えはなさそうだ。あたし達との絆を結ぶのに、あんたか載寧に頼もうと思ってる。あんたがやってくれなきゃ、載寧の手管に任せるまでだが……」
お蝶は口元に運びかけた杯を膳に置いた。
「ちょっと待ちなよ。じゃあ、あたしにはどうしろと……?」
「いやいいんだよう。それよりあんたにゃ地場廻りで精を出してもらやあ……。さあ、ぐっと空けな」
徳利を差し出して横から催促する美津を、お蝶は片手で制する。
「いや、あたしなら何をすればいいか教えなよ。何だか気になるじゃないか」
「ふふ、お蝶さんなら簡単なことだよ」
その声の先から、春花の淫靡な笑みがお蝶に向けられていた。
「伊賀の美津さんからも、あんたの床の技が達者なのは聞いてる」
「それで……?」
お蝶は不安を胸の内に隠して春花に問いかける。
「あの紫乃をあんたの女にしてほしいのさ」
「あ、あたしの?」
「早い話が……」
春花に流し目を送ると美津もまた口を開く。
「よく使う手だよ。男と違って、女を縛るには身体だけじゃなく心もさあ……」
お蝶はゆっくりと右手の杯を飲み干した。
「わかった。じゃあ、おいおい手を付けてみるよ……」
「いやもう今夜、ここで初めてもらいたいんだ」
再び口を開いた沙月女の顔をお蝶は見つめた。
「時が惜しい。あんたがよけりゃ、この隣の座敷に用意してある」
「よ、用意って何の……?」
続きの間との戸襖が音もなく開いた。
「さあ、用意いいよ。お蝶に任すならあたし暇。あっははは……」
笑いながら隣室から載寧が姿を現わす。
膳の徳利と杯を両手にとって、したり顔で一同を見回した。
「ちょと薬で眠てるね。気付け臭う、またすぐ起きる」
戸襖の間を覗き込んだお蝶は大きく目を見開いた。
八畳間ほどの座敷の中央に布団が敷かれて、その上に目を閉じて横たわった紫乃の姿が見えた。
「仕切りを閉めてあたしたちはここで大人しくしてるよ。だからあんたは遠慮なく……」
「あ、ああ……」
美津の言葉にお蝶はおぼつかない返事を返した。
「時々隙間を開けて覗くけど……、あっはははは……」
大きな笑い声を上げた春花の横で、載寧はお蝶に口を開く。
「少し眠らせただけ、色事は目を覚ますよ」
「へえ、そうかい……」
心の動きを気取られまいと杯を口に運ぶお蝶に、沙月女の鋭い眼差しが向けられる。
「じゃあ頼むよ、お蝶。あんたがやらなきゃ、明日から載寧に頼むだけの話だが……」
「わかった」
杯を置いてお蝶は立ちあがった。
続きの八畳間へ足を踏み入れたお蝶の背中に、さらに沙月女の声がかかる。
「これから身も心もあんたのものにするのに、今夜あんたの手でお嬢様を娘から女にしてやんな」
一瞬その表情を硬くしたお蝶は、そのままゆっくりと後ろ手で戸襖を閉めた。
そして沙月女は閉まった襖を見つめながら、在りし日の蓬莱の面影を切なく脳裏に蘇らせたのである。
菊 29歳。侍名 陣内伊織。北辰一刀流、居合の使い手。
実子である丹波の若君(鶴千代)が鷹一味に拉致され、再び伊織に身を変え若救出のため若狭へと向かう。
お蝶 34歳。昔のしのび仲間から丹波の若君がさらわれたことを知り、自ら取り上げた若君を救出すべく、再び伊織と旅を共にする。
羅紗 26歳。女性。丹波生れ江戸育ち。男性生殖機能を持つ。
16歳の時、伊織、お蝶、お通たちに守られ、江戸から国元の丹波まで送り届けられた。
鶴千代の父にして、お城の御台処を司る姫君。
若君を秘密裏に救出するため、大石桔梗を伊織の加勢に送り出す。
鶴千代 10歳。羅紗の子供。抜け荷の人質として、根来崩れで山賊まがいの鷹一味に拉致される。
初音 41歳。女性。上州生。羅紗の付き人。
15歳で藩江戸屋敷に上がって以来、羅紗姫の身の回りの世話をしている。
春秋花の淫牙にかかり、羅紗に対する育ての親以上の愛情に気付いてしまう。
大石桔梗 23歳。女性。江戸生。丹波藩士にして、今は亡き江戸家老大石の一子。
3年続けて御前試合の勝者となり、二天一流の使い手。
羅紗より鶴千代救出の密命を受け、伊織に力を貸すため単身若狭へと向かう。
蔓 31歳。女性。甲賀生。丹後お庭番(甲賀)
藩内の不穏な動きを調べるうち、抜け荷と丹波若君のかどわかしに繋がりがあることに気付く。
また、お役目に忠誠を傾ける大石桔梗の存在を知り、その無垢な人柄に惹かれるままに若救出の手助けをする。
帯刀紫乃 26歳。女性。会津生。会津藩士子女。巴流大長刀の使い手。
諸国武者修行の途中、他流試合の遺恨を受ける最中に伊織とお蝶に出会う。
華奢な風貌に似合わぬ伊織の腕前に驚くと共に、同性と知らぬまま初めてその女心を微かに揺らす。
自分の修行の糧にと伊織の助太刀を買って出る。
お美代 28歳。菊の子がかどわかしに会ったことを知り、大家のおかみを始め、長屋の女房連中に路銀を募って菊とお蝶を若狭へ送り出す。
鷹 36歳。女性。伊賀生。伊賀の修行を経た後、根来の残党と共に反社会勢力に身を投じる。
鶴千代誘拐で抜け荷の窓口を作り、阿片密造による天下の騒動をもくろむ。
沙月女 28歳。女性。出生不詳。根来残党。
心技体の調和と、その頭の良さから鷹の右腕として仲間をまとめている。
蓬莱 26歳。女性。紀州生。根来残党。
子供の頃から沙月女と共に根来の山岳修行に励む。
生まれついての恵まれた身体に気功体術を会得し、その圧倒的な体力の強さは脱術時の天女の様な美しさに比して現生の仁王の様である。
飛燕 25歳。女性。出生不詳。根来残党。
生まれつき迷いや恐れの感情を持ち合わせていないかの様な忍びの者。
自分を鍛え上げることだけに生きる意味を見出している。
ただ同じ日陰者で、凄まじい女の煩悩をぶつけてくる椿にだけは、その氷の様な心が揺らぐ時がある。
春花・秋花 24歳。双子の女性。尾張生。尾張白蝋の生き残り。
貧農の口減らしに美夜叉に引き取られ、幼少の頃より忍びとして育てられた。その運動神経や勘の良さは、まさに美夜叉が白蝋の行く末を託すほどの秘蔵子である。
傭兵として裏社会に名を知られ始めていたが、丹波絡みの一件にその遊び心を掻き立てられたのは間違いない。
春蘭 25歳。女性。清国生。阿片密造組織の一員にして双鞭の使い手。
日本人の母を持ち日本語を話す。
阿片組織が単身日本へ送り込んだ才色兼備の逸材。
載寧 37歳。女性。清国生。阿片製造、阿片調教の専門家。
代々阿片の栽培…製造に携わる家の生まれで、阿片に身体的、精神的な耐性を持つ。
椿 22歳。小浜の天竜一家が治める置屋の女。元は若狭の田舎娘であったが、飛燕に情交を強いられるうちに女同士の熱い煩悩で結ばれる。
その内に秘めた激しい女の気性は、冷たい飛燕の心にも命の暖かみを伝えて来るのだった。
咲 33歳。若狭浪人の内儀。長い間仕官の適わぬ夫と子供を抱えて苦労していた時、ふとしたきっかけで手内職など及びもつかぬ手間賃でお竜に雇われる。
苦い涙を噛みながらも、お竜からその女ざかりの身体に肉の喜びを刻まれていく。
美津 35歳。女性。美濃生。公儀隠密(伊賀)。
若いころから、お蝶とは共に忍びの修行をした間柄。
鶴千代の拉致をお蝶に知らせるが、実は裏で鷹と繋がりを持っている。
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1. Mikiko- 2018/03/15 06:34
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さてさて
鶴千代君は、無事、“父”である羅紗の元に送り届けられましたが……。
“母”である伊織とは、お別れとなってしまいました。
このあたりの経緯、なかなか複雑ですので……。
わたしの独断で、《登場人物紹介》を付けさせていただきました。
なお、この《登場人物紹介》は、わたしが作成したものではなく……。
八十八十郎さん自らによるものです。
原典は、↓『元禄江戸異聞 根来(四十一)』にあります。
https://mikikosroom.com/archives/24818201.html
次のコメントに続きます。
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2. Mikiko- 2018/03/15 06:34
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今回の場面
八十郎さんお得意の、女性同士の絡みを予感させますね。
日本では古来から、男色は一般的に行われて来ました。
でも、女性同士の性愛も、男色ほど大っぴらではありませんが……。
ないことはなかったのです。
これは、以前にもご紹介したことですが……。
岡本綺堂『半七捕物帳』。
その中の『唐人飴』という一編に、↓の一節があります。
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「常磐津文字吉という師匠は不思議な女で、酒屋の亭主を旦那にしているが、ほかに男の弟子は取らないで、女の弟子ばかり取る、それには訳のあることで、本人は女のくせに女をだますのが上手。ただ口先でだますのでは無く、相手の女に関係をつけて本当の情婦(いろ)にしてしまうのです。こんにちではなんと云うか知りませんが、昔はそういう女を『男女(おめ)』とか『男女さん』とか云っていました。もちろん、滅多にあるものじゃあありませんが、たまにはそういう変り者があって、時々に問題を起こすことがあります。文字吉は浄瑠璃が上手というのでも無いのに、女の弟子ばかり来る。殊に囲い者や後家さん達がわざわざ遠方から来るというのを聞いて、わたくしは少し変に思って、もしやと疑っていたら案の通りでした。つまりは色と慾との二筋道(ふたすじみち)で、女が女を蕩(たら)して金を絞り取る。これだから油断がなりませんよ」
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↓『唐人飴』の全編はこちらです。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/1019_15031.html
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3. 八十郎- 2018/03/16 20:43
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Mikikoさん、ありがとうございます。
いろいろとお手数をかけ、大変恐縮しております。
男色に比べて女性同士の色事が控えめなところ(表立っては)、まさにこのあたりが肝心なところかと。
不倫・寝取り寝取られなどエロスの代表的な題材は、女性の持っている本能に根差しているような気がします。
まあほろ酔い気分の私の感覚はどうでもいいとして、
Mikikoさんに捧げたこのお話、
たまたまお読みになった皆様にも、少しでも楽しんでいただけるところがあればよいのですが。
あと少しでお話も幕を閉じます。
長々と申し訳ありませんでした。
明日辺りはこちらも桜が咲くとのこと。
失礼しました。
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4. Mikiko- 2018/03/17 08:07
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大長編となり……
もう一度、登場人物のおさらいが必要かと思い、《登場人物紹介》を付けさせてもらいました。
八十郎さんの作品には、熱烈な固定ファンがいらっしゃいます。
2015年から翌年にかけての休載時には、再開を望むコメントが幾度も入りました。
さてさて、大団円に向かうお話、わたしも大いに楽しみにしています。