2018.1.16(火)
「襟替え、のう」
と、相馬禮次郎。
「へえ……」
俯き、呟くように答える志摩子。
「いまさら、のう……」
そこに、野太い声が重なった。
「なに、ぐじゃぐじゃ言うとんねん!」
志摩子は、左手を振り仰いだ。東中 昂(ひがしなかこう)が立ち上がり、志摩子を睨(ね)め付けて居た。
「一介の舞妓に一店(いってん)持たしたろ、ゆうとんのやないかい。しかも場所は京のど真ん中、先斗町(ぽんとちょう)や。何の不足があんねん(あるのだ)!」
志摩子の目尻が吊り上がった。
「ほやかて(そうは言っても)、東中の旦さん!」
東中が更に喚(わめ)く。
「やかましわ、舞妓の芸妓のと、えら(偉)そなこと言うとるが、しょせん売りもん買いもん。そもそも、おまん(お前)をここまでさしたったん(させてやったのは)、誰や思とんねん!」
相馬禮次郎が割って入った。
「まあまあ、昂(こう)はん、そこまで言わいでも。これ、小まめ、おまん(お前)も控えんかい」
相馬の制止は志摩子には通じない。
「へえへ、どうせうちらは売りもん買いもんでっさかいなあ。しやけど東中の旦さん、売りもん買いもんにもそれなりに意地はおますんやで」
「こら、小まめ」
相馬禮次郎を尻目に志摩子は膝立ち、下から東中を睨(ね)め付ける。
「ほう、こらおもろい(面白い)、どないな意地やねん、見せてもらおやないか」
志摩子は立ち上がった。
相馬禮次郎を挟み、小まめの志摩子と東中 昂(こう)は向き合った。
相馬禮次郎は身を引き加減、両腕を左右に、東中と志摩子の両者を分けようという風情である。
志摩子の視界の右隅。立ち上がり、こちらに向かう人影が見えた。道代、ではない。白一色の料理人服を纏う……。
(あん〔あの〕、お人や)
(料理人さんとしか、き〔聞〕いとらんけんど……)
(確か、野田、はん……)
「まあまあ、東中の旦さん」
東中 昂(こう)の前に立ち、両腕を伸べて宥めに掛かる体勢の野田太郎。
東中 昂が、自らの前の膳をまたぎ越し、太郎に向き合った。
「喧しわ、お前なんぞの出る幕やないわ!」
言うなり、東中 昂(こう)は、野田太郎を殴りつけた。
翻筋斗(もんどり)打つ太郎。
野田太郎は、文字通り一回転して畳に倒れた。
志摩子は、こちらは膳の脇を回り込み、倒れ伏す太郎の上に身を屈(かが)める。
「いやあ、だいじょぶ(大丈夫)どすかあ」
野田太郎は、閉じた目を開けた。
目の前に、花が見えた。
生身(しょうじん)の花、祇園の舞妓、竹田志摩子と、料理人野田太郎は初めて視線を合わせた。
太郎の目に、華やかな色彩が入った。
「柳桜をこきまぜて」などという言葉を太郎が知るはずもないが、まさにそのような華やかな色彩の集まり、としか太郎には思えなかったのだ。
高く結い上げた日本髪。
塗り重ねられた顔の白粉。
太郎は、さらに志摩子の全身に目を遣る。
ぽってりと厚みのある質感の和服。
胸高に結んだ帯。
襟元と、裾の紅(くれない)が、強烈に太郎の目を射抜いた。紅は着物の色ではない。下に重ねた内着が覗けているのだ。
紅(くれない)は、もう一か所あった。
顏の中心のやや下、口を彩る紅(べに)の色である。
紅(べに)は下唇の中央付近にのみ引かれていた。
太郎の上に屈み込む志摩子の、左側頭部の髪から垂れ下がり、左耳の脇を過ぎ、肩の高さにまで届こうかという「ぶら」と云われる細長い花飾りが揺れていた。「ぶら」は六本、それぞれ上から下まで多数の小菊の花びらをあしらってあった。
太郎は更に目を凝らした。
志摩子の頭頂部には、やはり多くの小菊をあしらった「花冠」が、右側頭部には小菊の花束に見立てた「ビラかんざし」が差してあった。
「ぶら」「冠」「ビラかんざし」を合わせ、「花簪」と称する舞妓特有の髪飾りであった。
白粉を厚く塗り、眉と目もとに墨を施した華やかな舞妓、祇園の小まめ、竹田志摩子の顔が、野田太郎の目の前にあった。だがその表情は太郎を気遣い、眉を顰(ひそ)めている。
太郎は一瞬、痛みを忘れた。
まじまじと、始めて間近に見る舞妓、竹田志摩子の顔に見惚れた。
「姐さん……」
呟きながら、太郎はふと思った。
(どこぞでお見かけしたような……)
その時、志摩子も思っていた。
(前にどこかで……)
呟く野田太郎の目に、男の両脚が入った。
見あげる太郎の視界が瞬時に暗くなった。
東中 昂(こう)が、太郎の顔を蹴り上げたのだ。
「止めとくれやすな、東中の旦さん!」
屈んだ姿勢から立ち上がり、東中を制止する志摩子の声はほとんど悲鳴だった。
「このガキが……たかが料理人の分際で……」
相馬禮次郎が東中と同様、膳をまたぎ越して太郎と東中の間に割って入った。
「も、止めときて、昂(こう)はん。それこそ、たかが料理人のやることやないかい」
志摩子も、相馬の後に続いた。
「そないどすえ、東中の旦さん。大人げの無い……」
東中 昂(ひがしなかこう)は志摩子に向き直った。
「ほう、言うやないか、小まめ」
「へえ、言わしてもらいます。何の手向かいもせんお方を殴る、蹴る。ちゃんとした大人のやらはることやおへんえ」
東中 昂は志摩子に対したまま、足元を見ずに声を上げた。
「おい、太郎」
野田太郎は、即座に返答した。
「へい、旦さん」
「もうええから、向こうへ行とれ」
太郎は上体だけ起き直った。そのまま、這うように元の場所、奥の金屏風の脇に戻る。そこには、変わらず道代が座していた。
相馬禮次郎を間に挟み、志摩子と東中 昂(こう)は睨み合った。
「おい、小まめ」
「なんどすか」
「えらい大層な口、聞くやないか」
志摩子の目尻が更に吊り上がる。
「大層かどうか知りまへんけど、東中の旦さん。うち(私)言うことは言わしてもらいますえ」
「おまん(お前)、誰に向こうて口、聞いとるんや」
志摩子は、下から睨(ね)め付ける様に東中を見た。
「鞍馬の料理人、東中はんに、ですがね」
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2018/01/16 12:33
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「なに、ぐじゃぐじゃ言うとんねん!」
「一介の舞妓に一店(いってん)持たしたろ、ゆうとんのやないかい」
「舞妓の芸妓のと、えら(偉)そなこと言うとるが、しょせん売りもん買いもん」
襟替え話を反故にされそうな小まめの志摩子の抵抗にプッツンきた東中 昂(こう)に、目尻を吊り上げ反撃する志摩子。
舞い、唄、酒食に歓談……和やかだった座敷が一転、修羅場です(それほどでも)。
しかし志摩子はともかく、殴る・蹴るの仕打ちを受ける野田太郎くん、一介の料理人としては、料理屋経営者にして料理人(おそらく花板)には逆らえないのでしょう。
まあしかし、この場の太郎くんはあくまで脇役。今回の暴力沙汰は、次の「志摩子の受難」「志摩子の恨み」への、軽いプロローグです。
>(どこぞでお見かけしたような……)
これは野田太郎。
>(前にどこかで……)
これは竹田志摩子。
今回“初めて”顔を合わせた両者の心中の呟きですが、二人の出会いは、初めてでは御座いません。
宜しければ、『アイリスの匣』#107をご参照ください(と、正面切っての番宣)。
〔あれから100回以上経つんだなあHQ〕
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2. Mikiko- 2018/01/16 20:03
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東中昂
引退を勧告します。
しかし、あやめと血縁があるとは思えない粗暴な人物ですね。
むしろ、『花よ志』の狂犬の血縁じゃないですか?
「襟替え」の費用って、どのくらいかかるんですかね?
もちろん、無給の舞妓に出せる額ではないでしょう。
旦那に出してもらうしかないわけで……。
見返りはもちろん、愛人関係です。
これを、「水揚げ」と云うわけです。
今は、どうなってるんですかね?
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3. ハーレクイン- 2018/01/16 22:33
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狂犬の血
は、あちこちに血脈があるということでしょうか。
無論、源流は異なります。
「あやめと血縁」は……「志摩子の恨み」のためには、しょうがなかったんですね。
襟替えは水揚げ
「芸・舞妓は売り物買い物」たる由縁ですが、これは今も変わらないでしょう(たぶん)。
いくらかかるか……これはわたしなどの知識の遥か埒外ですが、定価があるわけではないでしょう。
無論「金で売れへん」と、独立独歩の姐さんもいらっしゃいます(たぶん)。
〔♪金が物言う浮世と知れど金じゃとらない左褄HQ〕
↑笹みどり『下町育ち』
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4. Mikiko- 2018/01/17 07:29
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旦那に頼らず、襟替えをするためには……
借金をするしかありません。
銀行が貸すわけないです。
置屋に借りるしかないですね。
きっちり証文を取られるでしょうから……。
長期間、縛られることになるでしょうね。
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5. ハーレクイン- 2018/01/17 10:45
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借金まみれ
置屋に借りるとなると、お座敷の仕事は全て置屋の都合。
実質的には、独立したとは到底言えません。
世知辛い浮世ですがまあ、だれしも多かれ少なかれ、何かに縛られて生きているのでしょう。
〔やはり金かねHQ〕
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6. Mikiko- 2018/01/17 19:46
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柳都振興(株)
新潟市古町の振り袖さん(舞妓)・留め袖さん(芸妓)は……。
株式会社の正社員です。
もちろん社会保険完備で、退職金共済もあります。
寮(マンション)も備わっており、着物や小物などは、すべて会社から貸与されます。
早い話、身一つで入社できるわけです。
↓18歳から22歳までの健康な女性、新卒募集されてます。
http://www.ryuto-shinko.co.jp/recruit/
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7. ハーレクイン- 2018/01/18 00:30
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柳都振興さん
経営順調の御様子。なによりです。
新潟の旦那衆って、どんななんですかね。
祇園の呉服商……などとはまた毛色が異なると思いますが、いずれにせよ、儲けてはるんでしょうねえ。
〔振袖さんに留袖さん、だっけHQ〕
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8. Mikiko- 2018/01/18 07:23
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料亭の顧客層
ちょっと推測が付きません。
新潟の中心街は、ほぼシャッター通りになってます。
儲かってる老舗店舗があるとは思えません。
社用の接待に料亭を使う会社も、今どきないんじゃないですか。
料亭に入ったことのないような個人を対象に……。
↓料亭と芸妓を体験するコースが設定されたりしてるようです。
http://www.ryuto-shinko.co.jp/ozashiki/
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9. ハーレクイン- 2018/01/18 11:44
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料亭と芸妓を体験するコース
『芸妓の舞コース』(夕食・飲み物付き) おひとり様13,000円~
『料亭の味と芸妓の舞』(昼食付き) おひとり様5,000円~
だそうです。
これだと、そこらの高級レストランと変わりませんね。「~」が気になりますが。
〔いちげんさん大歓迎、だそうですHQ〕
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10. Mikiko- 2018/01/18 20:01
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下の店名リスト
一番上は、『行形亭』。
“いきなりや”と読みます。
創業は、江戸中期。
この料亭と、小路1本挟んで、『新潟刑務所』がありました。
江戸時代は牢屋で、明治になってからは監獄、戦後は刑務所と云う、とても由緒正しい刑務所でした。
この『行形亭』と『新潟刑務所』を挟む小路は、昔から『地獄極楽小路』と呼ばれてました。
刑務所は移転しましたが、小路の名は今も使われてます。
下から四番目の『鍋茶屋』は……。
『ブラタモリ』で、お座敷遊びをした料亭です。
創業は、1846(弘化3)年。
「~」は、飲み物の追加料金でしょう。
飲み放題のわけないと思います。
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11. ハーレクイン- 2018/01/18 21:04
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地獄極楽小路
はいはい、以前に紹介しはりましたな。
小路の入り口に、なんか標識みたいなのが立っていたのでは。
ブラタモお座敷
はいはい、やりましたな。
よくは覚えてませんが、タモさんと姐さんが何かを挟んで向かい合い、じゃんけんをしたのでは。
『鍋茶屋』ねえ。
牛鍋屋がルーツだったりして。
>「~」は、飲み物追加料金
そうかなあ。
そもそもメニューと姐さんに幾通りかあって、ランク分けされてるのでは。
〔飲み放題食べ放題HQ〕
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12. Mikiko- 2018/01/19 07:28
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『鍋茶屋』
ざーんねん。
スッポン鍋でした。
江戸時代ですよ。
同じリストの、『行形亭』の次にあった『ホテルイタリア軒』は……。
↓明治7年、イタリア人のピエトロ・ミリオーレが開いた牛鍋屋が元です。
http://www.italiaken.com/company/story.html
ランク分けはないでしょう。
ランクごとにまとまった客を集めるのは難しいと思います。
違うランクの客を並べるわけにもいきますまい。
料理が違うでしょうから。
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13. ハーレクイン- 2018/01/19 14:22
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ウシに非ずスッポン
江戸時代でしたか。
しかし、スッポンも四つ足ですぞ。食っていいのか。
ホテルイタリア軒
イタリア人が牛鍋ねえ。
それにしてもピエトロ・ミリオーレ。
波乱万丈と云いますか、感動的な生涯ですな。
>ランク分けはない
ただの思いつきです。
〔スッポンは食べたことないHQ〕
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14. Mikiko- 2018/01/19 19:49
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すっぽんぽん
日本では、縄文時代から食べられてたそうです。
ひょっとしたら、火焔形土器で煮られてたかも。
江戸時代では、滋養強壮薬として食べられてたようです。
いわゆる“薬食い”ですね。
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15. ハーレクイン- 2018/01/19 21:46
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薬食い
酒を「般若湯」の類かな。
〔卵は御所車;中に黄身(公)がおわすHQ〕