2017.12.12(火)
「で、やな」
相馬禮次郎は背後の絵、上村松園画『焔』の説明を、描かれた平安の女性、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)の話を続けた。
その相馬の右手に座した志摩子は、相馬の横顔を見詰めながら、いつでも手の徳利で相馬の杯に酌を出来る態勢で話に聞き入った。
「『源氏』の主人公、光源氏は当代の皇尊(すめらみこと)の息子はんやが……」
「へえ」
相馬禮次郎は首を右に向け、軽く視線を送り、呟くように志摩子に告げた。
「念のためゆ〔言〕うとくけんど、こらあお話、架空の話やで」
志摩子は、瞬時口籠り、返答した。
「あ、へえ、承知しとります」
「ほんで……六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)はんやが、こんお方は未亡人でのう……ご亭主、ゆうてもこれも天皇の息子はんなんやが、若うに亡くならはった。娘一人と御息所はんを残してのう」
「へえ、それは……」
「この娘はんも『源氏』の重要な登場人物なんやが、今はそれはええやろ」
「へえ」
「問題は六条御息所はんやが、ご亭主と死別の後、なんやかんやあって光源氏はんと恋愛関係になる」
「へえ」
「ところが、や。さっきも言うたようにこの御息所はんは……いわゆる才色兼備のお方でのう。そのせいか、性格がきつい、ゆうか気位が高いゆうか……まあ下世話に言や、教養が邪魔する、ゆうやつでのう。しかも、六条はんの方が源氏はんより年上や」
「はあ、ほれは……」
「ほれもあって……源氏はんを独占したい、しやけど素直に甘える、ゆうことがでけん。そういうお人やった。
「へえ……」
「で、いわば持て余した源氏はん、だんだん六条はんから遠ざかるように、ほんで別のお相手に通うようになってもた(なってしまった)わけや」
志摩子は言葉を無くした。同じ女の身として、身につまされる思いだった。
「ほんで、六条はん、少々おかしならはったんやろなあ、生きながらその身体から霊が抜け出す……これを生霊(いきりょう)ゆうんやが」
「いき、りょう……」
「無論、そないなことがほんまにあるんかどうか、まあ、これもお話やさかいな」
「へえ……」
「ともかく、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)はんの生霊は、源氏はんの新しいお相手に取り憑いて……」
「殺さはったんどすか」
「中には……取り殺されたお方もおらはった」
「…………」
「ほんで、なんやかんやあって、結局六条はんは病を得て死なはるんやが……死んだ後も死霊になって、源氏はんのお相手やら、身内やらを悩ませたそや」
再び言葉を無くす志摩子は、心中に思った。
(うちは……)
(男はんにそこまでの思い、持ったことないけど……)
(ほんでも……)
(いつか、そうゆうことも……)
「ほの、六条御息所の、生霊か死霊か、ほれを描いたんがこれや」
これ、と相馬禮次郎は背後を見遣りもせず、軽く首を振って上村松園画『焔』を示した。
「さっき、この絵の主題はおなご(女子)の情念、執念、妄念、ゆうたんはそうゆうことや」
「……へえ……」
「松園さんもな」
「あ、へえ」
「年下の恋人がおらはった」
志摩子は絶句した。
「学生はんやったそうやが」
「…………」
「このお二人も、それこそいろいろあってのう、結局別れることんなった」
「…………」
「てゆうか、松園さんが相手の男に振られはった」
「…………」
「で、松園さん、あきらめきれいで……男にしつこう付き纏(まと)わはったそや」
「…………」
「で、より戻りかけえの、やっぱし別れよ、の、ほれこそどろどろの男女の縺(もつ)れんなって」
「…………」
「結局、男が松園さんに言い渡した。『そんなあなたの姿、これ以上見とうない……』」
「……そ、そ……」
「で、結局捨てられてぼろぼろんなった松園さん、まったく絵ぇ、描けんようんならはった」
「…………」
「これが有名な松園さんのスランプのきっかけや。このスランプがさあ、何年続きはったかのう」
「…………」
「ほ(そ)こをなんとかしようと足掻き、踠(もが)き、のたうち回る様な思いでようやっと描かはったんがこれ……『焔』や」
「…………」
「しやから、この絵のモデルは六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)やけんど、松園さん自身でもあるわけや」
「…………」
「いや、世の総てのおなご(女子)がモデル、ゆうてもええんかもしれんのう」
志摩子に言葉は無い。
大きく吐息を吐(つ)いた。
その吐息を追うように、掠れた声がようやく出た。
「……旦さん……」
「ふむ」
「うち(私)…………」
その志摩子の目が、右に泳いだ。
廊下側の板戸が一枚開き、先ほどの案内の男が入って来た。手には一脚の※宋和(そうわ)膳。
※一人用の膳の一種
足は四本、膳面は一尺四方、高さは半尺ほど
多くは全体に黒塗り、絵模様の無いシンプルな膳
すぐ後ろに道代が続いている。道代も同じ様子の膳を捧げていた。
男はそのままこちらに向かって来る。
道代は入ったその場に座して膳を畳に下ろし、板戸を両手で閉じた。膳を手に立ち上がった道代は、そのまま男の後に続いた。
「お待たせしました」
言って男は、相馬禮次郎の前に、掲げてきた宋和膳を据え、今まで相馬の前にあった簡素な膳、徳利と杯のみを載せた膳を横にずらした。そのまま、宋和膳を相馬の膝前に押しやる。
追いついた道代が、志摩子の前に宋和膳を据えた。
(ああ、膳の用意しに行ってたんか、道)
言葉には出さず、目で道代に呼び掛ける志摩子だった。
へえ、と、道代も目で答えた。
「さあ、料理も来た。ゆっくり飲もやないか、小まめ」
「あ、へえ」
案内の男が、相馬禮次郎の膳の上の徳利を取り上げる。杯を手にした相馬は、悠然と酒を受けた。
「どうぞ、姐さん」
道代も男に習い、志摩子に酌をした。
杯を干した相馬が志摩子に語り掛ける。
「紹介しとこか、小まめ。この男はなあ、鞍馬で料理屋やっとる東中昂(ひがしなか こう)っちゅう男や。『こう』は……まあ、面倒やからええやろ」
東中は無言で志摩子に目を向けた。
志摩子は、手の杯をそのまま膳に置き、東中昂を見遣った。
相馬禮次郎は言葉を継いだ。
「料理屋の主人やのに、板場で包丁も持つっちゅう変わりもんや」
志摩子は居住まいを正し、畳に三つ指を突き、軽く仰のいて東中を見遣り、笑みを浮かべて挨拶した。
「へえ、お初に御目文字(おめもじ)します。どうぞよろしゅう、東中の旦さん」
男は、東中昂は変わらず無言。ちら、と志摩子に目を遣り、そのまま立ち上がった。部屋の奥まで歩き、金屏風の前に端然と座す。
道代がその脇に座した。何やら、東中の従者(しもべ)の様な風情の道代だった。
「あ……」
東中に酌をしようとした志摩子は間(ま)を外され、言葉が続かなかった。
「あの男はのう、小まめ」
「あ、へえ」
「酒、一滴も飲(や)らんのや。料理屋やっとって料理人で、ほれで務まるんか、思うが……ほんまに変わった男や」
「旦さんとは、どないな……」
志摩子は言葉を途中で呑んだが、その意図は分ったのだろう。相馬禮次郎は答えた。
「ほれはまあ、色々あったが……まあ、ぼちぼちと話してやる」
志摩子は無言で、自らの膳の上の徳利を取り上げ、相馬に差し出した。受けた相馬は、そのまま杯を手に、軽く志摩子を見遣った。
「さあ、おまはんもやんなはれ、ほれ」
杯を掲げる相馬に合わせ、志摩子も自らの杯を取り上げた。杯の内には、先ほど道代が酌をした酒がそのままである。相馬に習い、志摩子も軽く杯を掲げた。
「ほなまあ、乾杯、や」
「へえ」
相馬禮次郎と竹田志摩子は、同時に酒を口に含んだ。
そのまま、膝前の膳に目を遣った相馬は、少し声を大きくした。
「おうおう、東中の奴、えろう張り切りよったのう」
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2017/12/12 13:22
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相馬禮次郎の……
『源氏物語』講義が続きます。
何やら、どこやらの大学の文学部の教室のようですが、無論作者は、んなもの受けた経験ありません。
>教養が邪魔をする
相馬禮次郎の、六条御息所への評価です。
まあ確かに、美貌と教養を兼ね備えた女性というのはそういう傾向があるのかもしれません。
わたしは……教養はともかく、美貌の女性にお近づきになった経験はありませんので、何とも言えませんが。
宋和膳
えらい、大層そうに書きましたが、要は宴会なんかで供される、一人用の、そっけもない膳ですね。
東中昂(ひがしなか こう)
久方ぶりの新登場人物です。
まあ、バラしときましょう。
物語上、重要人物です。
御目文字
おめもじ、お目にかかります、ですが管理人さんから「そんなん、わからんわい」とクレームが付きました。
お初にお目にかかります、の方がよかったかなあ。
と、いうことでございまして
今しばらく、相馬-志摩子の酒宴が続きます。
この宴の場が、いずれ地獄絵に変貌致しますわけですが、それは次回以降のお楽しみ。
『アイリスの匣』、今後ともご愛読賜りますよう、御願い奉ります。
〔源氏なんぞ読んだことないHQ〕
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2. Mikiko- 2017/12/12 19:46
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東中昂
あやめの兄さんじゃなかったんですか。
兄妹の父親ですかね。
御目文字の件。
言うときますが、わたしはわかりました。
わからない人もいるだろうから、フリガナを振ったらどうかと提案したのです。
宋和膳。
これは、知りませんでした。
わたしが用語として知ってたのは、蝶足膳。
↓足の形が違うようです。
http://www.sumai-info.jp/oyako/09/03-1.html
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3. ハーレクイン- 2017/12/12 21:46
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年代、考えなはれ
と、言うても無理か。
作者にもようわからんようになってきました、『アイリス』時間。
えーと、小まめ時間は戦後数年あたり。
あやめ時間は、昭和60数年だったかと思います。あやめが金沢から京都にもんて(戻って)来たのが、国鉄がJRに変わる数年前でしたか。
ということは、志摩子とあやめは親子くらいの歳の開き。相馬の旦さんと東中昂は、小まめの志摩子のその一世代上、あやめにしますと二世代上、てなことになりましょうかね。
蝶足膳
これも考えたんですが……なるべく簡素に、ということで宋和膳にしました。
といっても、両者の違い、作者はようわかっておりません(おい)。
〔♪時の流れに身をまかせHQ〕
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4. Mikiko- 2017/12/13 07:35
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なるほど
まだ、あやめ兄妹は、生まれてないということでしたか。
お膳で食べるのは、温泉旅館の夕食くらいですかね。
足の形までは、見ていませんでした。
蝶足膳は祝い事や正月用で、宗和膳はお客さま用だそうです。
旅館のは、宗和膳だったんですかね。
蝶足膳は、文字どおり、蝶が羽を拡げたような足の膳という意味。
足そのものの形ではなく、2本の足が作る空隙の形のことだと思います。
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5. ハーレクイン- 2017/12/13 08:49
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生まれていない……
か、どうかはともかく。
東中 昂はあやめの祖父に当たります。
そのあたり、よろしゅうに。
蝶足膳
宋和膳。
いずれも、まったく気にしていませんでした。
料理にばっかし気に取られてたもんなあ。
まあしかし。
今後も膳に気を配ることは無いでしょう(おい)。
問題は、やはり料理。
この後、志摩子に何を食べさせますかねえ。
〔よろしゅう おあがりやすHQ〕
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6. Mikiko- 2017/12/13 19:45
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料理は……
やはり、タケノコでしょう。
あ、季節が違うか。
冬なんだから、イノシシなんてのは、どうでしょう?
「山鯨」「ぼたん」などの用語で、相馬の旦さんにまた語らせられますよ。
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7. ハーレクイン- 2017/12/13 20:51
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タケノコ
仰せの通り、残念ながら季節外れです。
淀川の右岸、京・大阪の府境は、竹の産地。タケノコは名物なんですがね。
タケノコは『アイリス』では、あやめと明子、東山の料亭『ひいらぎ』での酒宴の料理に登場させました。と、大っぴらに番宣。
が、まあ、これ以上引っ張る予定はありません。
●雪がちらちら丹波の宿に猪が飛び込むぼたん鍋
〔デカンショ節HQ〕
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8. Mikiko- 2017/12/14 07:31
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ぼたん鍋
食べたことがありません。
東京にも、ありますよね。
↓そう云えば、『ニッポン百年食堂』という番組は面白いです。
http://www.bsfuji.tv/100nen/
創業百年を超える老舗食堂だけを紹介する番組。
レポーターの伊藤章良(あきら)という随筆家が……。
毎回、一粒残らず完食するのが痛快です。
確か、東京のぼたん鍋の店も出たと思います。
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9. ハーレクイン- 2017/12/14 09:12
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わたしも経験ありません
ぼたん鍋。
無論、東京にもあるでしょう。
ていうか、東京に無いものなんてあるんですかね。
まあ、猪ですから、豚と似たような味なのでは。
『ニッポン百年食堂』
見たことありません。
百年、は大仰ですが……。
こちらでは、毎土曜日に放送のようです。一度見てみましょう。
完食、は当然でしょう。作った人への敬意を忘れてはいけません。
まあしかし、わたし某コーヒー店の余りの味のひどさに、ナプキンだかコースターだかを突っ込んで出てきたことがあります。
〔客、なめとんのかHQ〕
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10. Mikiko- 2017/12/14 19:54
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『ニッポン百年食堂』
BSですので、どこでも同じ時間です。
ぼたん鍋のお店は、常時イノシシの肉が手に入るわけですよね。
イノシシって、養殖なんですかね?
ちょっと調べたところ、イノシシとブタを掛け合わせた、イノブタというのが養殖されてるようです。
イノシシは性格が荒く、囲って買うのは難しいそうです。
イノブタは、肉に臭みもなく、柔らかくて食べやすいんだとか。
店で出されてるのは、これですかね。
『ニッポン百年食堂』のレポーターさんは、ラーメンなどでも、スープを一滴残らず飲み干します。
太っておられますが、血圧は大丈夫なんでしょうか?
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11. ハーレクイン- 2017/12/14 20:46
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ぼたん鍋
やはりイノブタでしょうか
味はあまり変わらないかな、と。
>血圧
どころか、ああいう食レポーターさんは、命をかけて食べてはるのでは。
〔♪よーいよーいデッカンショHQ〕
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12. Mikiko- 2017/12/15 07:29
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伊藤章良
大阪生まれだそうです。
http://dze.ro/authors/akiraito
大阪のどこかは、どこにも書いてありませんでした。
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13. ハーレクイン- 2017/12/15 12:15
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だれや、あんた
伊藤章良。
と思ったら『ニッポン百年食堂』のレポーターさんでした。
前々……コメを確認しちまったよ。
〔物忘れ外来HQ〕