2014.2.11(火)
「お待たせしました」
宝田の座敷に戻ったお道は、手の盆を捧げ持ちながら、宝田の前に座った。盆の上の皿を手に取り、宝田の膳に置く。
宝田、志摩子、お道の三人の目が皿の上の一品をまじまじと見つめた。
「これ……なんですやろ」
(ああ、女将さんにもわからんのや)
「なんですやろなあ。刺身には違いおへんやろけど」
「ほんなもん、見りゃわかるわいな。何なん、魚は……」
宝田が、詰めた息を漏らしながら呟いた。
「タコ……やな」
志摩子も同じように、吐息交じりに呟く。
「タコ……でっか」
「ああ、タコの足やな」
「これが……タコ」
長年、いろいろな料理を見てきたお道にも、その一品がタコとは、到底思えなかった。
(これが……タコ)
志摩子の言葉と同じ言葉を、お道は心中で呟いた。
(信じられへん。こんな料理がこの世にあるやなんて……)
宝田が箸を取り上げ皿の上に伸ばす。タコの切り身を一切れ摘み上げ、口に持っていった。醤油も何もつけない。
咀嚼する。噛み締めるように咀嚼する。嚥下した。
「うーむ」
一声呻いたまま、そのまま言葉は出ない。
「どないでっか、旦さん」
志摩子の呼びかけにも、宝田は返答できない。その目尻から一筋、涙が伝い下りた。
「旦さん、泣いておいやすんか」
「泣くぅ、儂がかい。なんで泣かんならんのや」
「ほんでも旦さん、涙……」
「女将、呼べ」
「へ? 誰をでっか」
「決まっとるやないか。こいつを捌いた料理人や。女子高生料理人や。すぐ呼べ」
志摩子は一瞬ためらった後、お道に命じた。
「お道、あやめを呼んどいで」
「へえ」
お道は再び、あたふたと座敷を出て行った。
「旦さん、呼んでどないしはりますのん」
それには答えず、宝田は自らの膳を志摩子の膝前に押しやった。
「女将、食べてみい」
「え、いや、そんな」
「ええから、食べぇ」
志摩子は、指先でタコの一片を摘まみ、宝田と同様に何もつけず口に含んだ。口内に潮の香りが広がる。志摩子の脳裏に、子供のころ故郷の丹後の海辺で、ころげまわるように遊んだ記憶が鮮やかに甦った。
志摩子の目尻から、宝田と同様に涙が伝い下りた。
「旦さん」
「なあ、女将。こいつは、とんでもない料理やで」
「ほないどすなあ」
「女将、ええ拾いもんしたなあ。こらあ、毎日でもここに来んならんわ。仲間も連れてな」
「おおきに、せいだいご贔屓に」
お道が襖の外から声を掛けた。
「連れて参じました」
「おう、入れ」
お道が襖を開けた。あやめは板張りの廊下に平伏していた。
「おう、はいれ入れ」
あやめは平伏したまま答える。
「いえ、とんでもおまへん。ここで」
「そんな遠くでは話にならん。ええから、入れ」
「かまへん。入り、あやめ」
志摩子の声に、あやめは平伏したまま座敷に躙り入った。
「なんやねん、ほないにかしこまらいでも。顏、上げ」
「へえ」
あやめは手を畳に突いたまま、顏だけを上げた。宝田を見詰める。
「あやめ……やったかいな。儂のこと、覚えとるか?」
「へえ、宝田はん」
「おう、覚えとったか」
「鞍馬の店をご贔屓賜り、誠に有難とさんどした」
「懐かしいのう。兄ちゃんは元気か」
「へえ、元気にやらせてもろてます」
「ほうか。おまはんがおらんようになってから、鞍馬は長いことご無沙汰や。せやけど、まさか祇園でおまはんの料理食えるとは思わなんだ。相変わらず大した腕やのう」
「恐れ入ります」
「ほれにしても、今の刺身。仕事してあるのう」
「恐れ入ります」
あやめは、改めて深々と頭を下げた。
「おまはん。学生やってたんやて?」
「へえ」
「どこや、大学は」
「へえ……I県のK大学どす」
「ほう、儂の息子が今、行っとるわ。京にはなんぼでも大学あるのに、何もほないな余所に行かいでも、と思たがのう」
「へえ」
宝田は、あやめを差し招いた。
「よっしゃ、一杯いこ。こっちおいなはれ」
あやめは平伏したまま、動かない。
「どないしたんや。ええから、こっちおいで」
「あやめ。かまへんから、盃、頂きなはれ」
「へえ」
あやめは頭を下げたまま、宝田の前に躙り寄った。
宝田が、手にした盃を突き出す。
「ほれ。女子高生の頃のおまはんには『未成年や』いうことで受けてもらえなんだけど、もう大学まで出たんや。かまへんやろ」
あやめは、軽く頭を下げたまま、両手で盃を受け取った。宝田が徳利を鷲掴みにし、酒を注ぐ。
「頂戴いたします」
あやめは、一気に盃を開けた。
宝田は目を細め、あやめを見やる。
「おう、見事な飲みっぷりやないか。こらあかなり大学で鍛えたと見た。ささ、もう一ついこ」
「へえ」
腹を決めたあやめは、再び酒を受けた。飲み干す。
「おうおう、見事。これがあの女子高生料理人とはのう。よう育った。よう精進したのう、おまはん」
「恐れ入ります」
あやめは、腰の手拭いで盃を拭い、一度押し頂いた後、宝田に返した。膳の上の徳利を両手で捧げ持ち、宝田に酌をする。
あやめを真似るように、宝田も一気に空けた。
「のう、あやめ。このタコやけんど、どこぞで習(なろ)たんか」
「いえ、それはわたくしが……」
「おまはんの考えか」
「へえ」
「うーむ」
宝田はもう言葉が出ない。志摩子が徳利を取り上げ、酌をした。再び一気に飲み干す。
「いや、ともかく見事やった。また、頼むで」
宝田は懐に手を突っこみ、祝儀袋を取り出した。あやめに差し出す。
「これ、少ないけんどな。とっときなはれ」
「いえ、そんな、とんでもない」
「頂いときなはれ、あやめ。旦さんの気持ちや」
あやめは、志摩子を見やった後、両手を伸ばして受け取った。
「おおきに、ありがとさんでございます」
「うむ」
「よっしゃ、もうええで、あやめ」
「へえ、ほな、失礼いたします」
「うむ」
あやめは敷居際まで下がった。もう一度手を突き、深々と礼をした後、お道の開けてくれた襖を潜って廊下を下がって行った。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2014/02/11 09:49
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通算50回を迎えることになりました。
日頃のご愛読、誠に有難うございます。
今後もHQ、精進させていただきます。
で今回、宝田の旦那の座敷に招かれました、あやめはん。
料理人が座敷に呼ばれるのは、ある意味、最大の栄誉です。
よかったなあ、あやめはん。
もう、涙がちょちょ切れますわ。
で、あやめはんと宝田の旦那は旧知の仲。
鞍馬以来どすか。
なんか、光りが射すようですなあ、あやめはん。
頑張んなはれや。
♪淡き光立つにわか雨
いとし面影の沈丁花
ほれにしても、祇園「花よ志」の志摩子女将。故郷は丹後やったんですねえ。
丹後は京都北部。日本海沿岸の景勝の地です。どうぞよろしゅうに。
『アイリス』
今後もご愛読賜りますよう、伏して御願い奉ります。
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2. Mikiko- 2014/02/11 11:52
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あやめのタコ料理がどんなものか、よーわからんではないか。
タコに見えないのなら、いったいどういう外見をしてるのか……。
醤油も付けないで食べて、どうして涙を流すほど美味しいのか。
何か、味付けしてあるわけですよね。
これらの描写が無ければ、漫画の原作にはなりませぬぞ。
うーむ。
『包丁人味平』が読みたくなった。
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3. ハーレクイン- 2014/02/11 12:55
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そこが「仕事」ということですね。
味付けはしてまへん。
ご賞味くだはい。あやめさんの蛸料理
なんの味付けもしておりまへん。
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4. Mikiko- 2014/02/11 19:43
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生のままのタコということでっか。
生のタコが、そんなに美味しいものですかね?
使い残しってことは、採れたてというわけでもないし。
わたしが、さほどタコを好きじゃないからでしょうか?
久しぶりに、タコ刺し、買ってきてみるかな。
↓こんな食べ方も、美味しそうです。
http://kentaro86.blog.so-net.ne.jp/2010-03-03
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5. ハーレクイン- 2014/02/11 20:38
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わたしは柑橘類の皮が苦手でね。
昔、ゆずの皮をまぶした料理を出されて往生したことがあります。しかもその時の吸い物にも散らしてありました、ゆず皮。
嫌がらせかい、と思ったほどです。
>生のタコが、そんなに美味しいものですかね?
そこはそれ、あやめさんの包丁の味と思っていただきましょう。
刺身というのは、ただ切るだけという料理ではないのですよ。包丁の入れ方によって味は変わるのです。
それに、使い残しといっても、二日も三日も前というわけではありません。ついさっき(たぶん源蔵が)使ったタコの残りなんですね。
あれ?
そうなるとあやめさんのタコ刺し。
源蔵に対する嫌味になるかなあ。
大丈夫かなあ、あやめさん。
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6. Mikiko- 2014/02/12 07:51
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なるほど。
わたしも、漬物やうどんに入ってるのは、少し苦手ですね。
そんなら、これはどうだ?
↓『タコしゃぶ』です。
http://www.hokkaidolikers.com/articles/620
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7. ハーレクイン- 2014/02/12 09:59
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稚内くんだりまで食べに行く気は沙羅沙羅、いや更々無し。
それにしても、なぜあやめさんにタコ刺しを作らせたのかなあ。
あ、そうか。テレビの料理番組で見たんだった。
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8. Mikiko- 2014/02/12 19:59
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味も見た目も、さーっぱり伝わりませんでしたぞ。
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9. ハーレクイン- 2014/02/12 22:04
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見た目はもう少し書き込むべきだったなあ。
なんせ、アンチョコの、料理番組の録画が消えてしまったのでね。