2013.9.17(火)
5月の春の風の中で始まり、12月の雪の中で終わった七か月の日々。長いようで短いような、一瞬に過ぎ去るようで永遠に続くような、濃密な二人の時。
今、香奈枝の脳裏を占めるのは、その日々の思い出だけだった。
香奈枝はずっとアパートの部屋に閉じこもっていた。大学にはあの日以来、あやめがいなくなったあの雪の日以来、行っていない。食事もろくにしていなかった。終日、布団の中で悶々としていた。部屋を出るのはトイレに行くときくらいだった。
時折、入り口の戸をノックする音が聞こえたが、出ることはもちろん、返事すらしなかった。
することといえば、あやめとの思い出を辿るか、オナニーに耽るか、書き置きを読み返すか……。
枕元には、くしゃくしゃになったあやめの書き置きがあった。
……………………………………………………
香奈枝
香奈、愛しい香奈、大好きな香奈。
ごめん、ほんまにごめん。ごめんね。
うち、行く。
料理修業に、京都に行く。
うちが悩んでることに、あんたが気付いてたこと、もちろんうちは知ってた。わかってた。知っていながら気付かんふり、してた。
ごめん、ごめんよ。ごめんね。
うちはね、もともと料理の道に進むつもりやったんよ。ほんでもね、話したと思うけど、実家の料理屋を兄が継いで、同時に結婚してお嫁さんが来て、どうにも実家には居辛(いづろ)なった。その時点でどこか余所に修行に出たらよかったんやけど、ええところが無(の)うてね。大学に進むことにした。
そのとき料理の道はあきらめたんやけど、諦めたつもりやったんやけど、大学で過ごすうちに、どないしても料理人になりたい自分に気ぃ付いてね。兄に頼んで、どっか板場に入れてくれるとこないか、探してもろてた。
ほんでも、なかなか無(の)うてね。すでに調理師免許持ってて、二十歳を超えてて、しかも女で学生。まあ、無いわね。普通やったらどこも引き受けんよ。でね、ほとんど諦めてた。
で、4回になったころ、ほして、あんたに初めて会(お)うたころはね、教授からも薦められて、院に進もて、考えてた。そないしたら、あんたと一緒にずっとおられるしね。
その矢先、兄から連絡があってね、引き受けてくれる店が見つかったって。
うち、悩んだ。
むちゃくちゃ悩んだ。
香奈とはもちろん、ずっと一緒におりたい。ほんでも、料理の道が開けたとなると、積年の夢をかなえたい。
両方は取れんのや。料理修業云うのはそれほど大変なもんなんや。うちかてそれなりに板場の経験はある、そのあたりは承知してる。
香奈、こないだ内灘に行ったときね、あの時は楽しかったねえ。
うちあの時、あんたに嘘ついた。
覚えてるかなあ。待ち合わせた北鉄の改札口で、あんたこう言うた。
「あやめがどこかへ行っちゃったんじゃないかって、心配したんだよお」
うちは答えた。
「うちがどこ行くいうんよ。香奈を置いてどこにも行かんよ」
ごめん、あれ、嘘。
あんたと過ごした間で、たった一つ、ついた嘘。
あの時はもう、京都に行くて決めてた。
なんであんたに何(なん)も言わんかったか。一言も相談せんかったか。
あんたもそこが腹立つとこやと、ようわかってる。
あんたを軽んじたわけやないんや。なんべんも何べんも言おとしたんや。ほんでも……、
京都に行くか大学に残るかを選ぶ、いうんは、あんたと別れるかずっと一緒におるかを選ぶ、いうことや。
そんなん、あんたに相談でけへんやん。
「別れよか、続けよか、どないする」
そないなこと言えるわけないやん。
あんたの気持ちはようわかってる。「あやめと別れとない」、ようわかってる。
ほんでも、うちが「料理を選びたい」言うたら、自分の気持ちを押えてでも賛成してくれるあんたや。それもようわかってる。泣いて縋りつくようなあんたやない、ようわかってる。
要するに、あんたを悩ませとなかったんや。あんたに、別れるか続けるかの選択なんか、させとなかったんや。
「自分の存在があやめを悩ませている」そんな風にあんたに思わせとなかったんや。
ほんでも、何も言わんいうことも、あんたを悩ませる。苦しめる。そのこともようわかってた。
ごめん、ごめんやで。ほんまにあんたを苦しめてしもた。
わかっていながら、何も言わんかった。
ごめん、ほんまにごめん。うちはひどい女や。
結局、うちが選ばなあかんことやったんや。
で、うちは京都に行くことにした。あんたには一言も言わずにそない決めた。
うちは、あんたと別れて料理を選ぶ。決めたんや。
うちは、あんたを捨てる。
あんたを捨てて京都に行くんや。
香奈、ごめん、ほんまにごめん。
勝手な言い方やけど、うちのことは忘れて。
料理修業なんて何年かかるかわからへん。
一人前になるまで、どのくらいかかるかわからへん。
あんたに「待ってて」なんて言えへん。
ごめん、ほんまにごめん。
うちはこういう女や。
勝手な女や。
どうぞ怒って、恨んで、罵って。
その怒りの言葉を、恨み言を、罵りを聞きたい。
ほんでも、そないしたら別れられんようになるのもわかりきってる。
ごめん、ごめんやで、香奈。
顔見たら、絶対に別れられへんから、会わずに、あんたがおらん間(ま)にこの部屋を出ていく。
好きやで香奈。この世で一番、香奈が好きやで。
こんなに好きになった人はあんたが初めてや。
ほれでも、うち、行く。
ごめん。
おおきに、ほんまにおおきに香奈。
さいなら。愛しい香奈。
さいなら。
……………………………………………………
幾度読み返したことか。その度に香奈枝は泣いた、血の涙を流した。
会えないのか。
もう二度と、愛しいあやめに会えないのか。
あやめの気持ちはよくわかった。
でも……。
やり場のない悲しみと、埋めようもない欠落感。ときおりこみ上げる激しい怒り。どこにぶつけようもない憤怒の情は、あやめの書き置きを握りしめて耐えるしかなかった。
あやめと過ごした日々が、懐かしく慕わしい。しかし、それがかえって香奈枝を苛んだ。
もう、涙も出ない。
どうすればいい、
何をすればいいの。
窓の外は相変わらず雪だ。今日は風も強い。
カーテンの隙間から覗ける窓外には、斜めに雪が吹き過ぎていく。雪の日は、戸外の物音はあまり聞こえない。だが、窓の下を流れる川の音は、変わらず香奈枝の耳を打つ。そんなことも、あやめを思い出させるのだ。
かにかくに祇園は恋し……
祇園は、京都随一の繁華街と聞く。
あやめは今頃どうしているのだろう。
なにをしているのだろう。
あやめぇ……。
香奈枝の指が股間に伸びた。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2013/09/17 09:13
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あやめさんがいなくなったアパートの一室で、香奈枝せんせは懊悩の日々を過ごします。
枕元には、あやめさんが心情を綴った書き置き。
捨てる者と捨てられる者。
どちらがつらいのか、そんなことは考えてもしょうがないのでしょうが、香奈枝せんせの苦悩は察するに余りあります。書いた時も読み返しても、涙塞き敢えず、です(ちょっと大げさ)。
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2. Mikiko- 2013/09/17 19:40
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泣きながら書いたんじゃないかという予感はありました。
そこまで感情移入が出来るのは、うらやましい限りです。
これは前回も書きましたが……。
わたしが香奈枝さんなら、探しに行きます。
興信所を頼めば、すぐ見つかると思いますが……。
高いですしね(人捜しの能力は大したものですよ)。
香奈枝さんの性格から云ったら……。
自分の足で探すんじゃないかな?
逃げ回ってるわけじゃないんですから……。
地道に聞き歩けば、必ず見つかると思います。
あと、今回の冒頭、「5月の春の風の中で始まり」とあったのがしっくり来なかったので……。
#1を読み返してみました。
あやめと香奈枝の出会いは、学部新歓コンパの「川太郎」ですよね。
#1冒頭部の描写は、以下のとおり。
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長い冬がようやく過ぎ、先日咲き始めた桜の花がもう散り始めている。然し、その隣の桜の樹の花はまだ七分咲きといったところで、さあ、いよいよこれから満開だ、という風情である。
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金沢のソメイヨシノの開花は、4月初旬じゃないですかね?
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3. ハーレクイン- 2013/09/17 22:00
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行きません。
『リュック』第十場第二景に↓こうあります。
香奈枝「あやめの料理への思いはよくわかっていたからね。
一人前になるまでは、決して後ろを振り向かないってね。
あたしに会いたいって思いもよくわかっていたから、
あたしの方から、探して会いに行くこともしなかった。
実家の住所は知ってたんだけどね」
5月じゃなく4月。
これはわたしも気になっていたんですね。桜云々は書きたいし、新歓コンパが4月というのは少し早いし……。桜はソメイヨシノじゃなくて遅咲きの種類なんだ、と屁理屈をこねる手もありますが……。
ま、長い物語。しかもプロットも作らずの行き当たりばったりのど素人作家。多少の矛盾はお許し下され。
現に、今気付いたのですが、この第十場第二景には
↓このような記述もあります。
香奈枝「ある日、あたしが授業が終わってアパートに帰ると、
あやめの荷物が綺麗に無くなってた。
書き置きを1枚、残してね。
卒業式もまだまだの……2月の寒い頃だったな」
あやめさんはほとんどの荷物を残していったはずだし、あれだけの量(1,480字)の書き置きが僅か1枚はありえないし、出て行ったのは12月のはずだし……。
あ、「ほとんどの荷物を残していった」が出てくるのは次回か。自分でフライングやらかしちまったい。
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4. Mikiko- 2013/09/18 07:48
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居場所がわかるだけでも、気持ちが落ち着くんでないの?
遠目に姿を見ることも出来るでしょうし。
わたしだったら、変装して擦れ違いますね。
着ぐるみ着てたらわからんだろ?
遅咲きの桜と云えば、サトザクラ(ヤエザクラ)ですが……。
これだって、4月の下旬には咲き終わります。
ま、この件はとりあえずこのままにして……。
先を書いててもいいかもね。
「2月の寒い頃」は、1行直せば済むことだと思いますけど。
しかし、こーゆーことを、何で読み返してて気づかないかね?
酒飲んで読んでるな。
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5. ハーレクイン- 2013/09/18 12:51
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>遠目に姿を見ることも出来る
そんなことしたら未練が募るばかりではではないですか。
早く忘れることが立ち直るための道でしょう。
>先を書いててもいいかもね
意味不明なんですけど。
「2月の寒い頃」。
訂正していいですか。
もう一つ大きな矛盾点があります『アイリス』。
この際、バラしちゃいましょう。こちらはうっかりミスや見落としではなく、確信犯的犯行です。
#26、#27の内灘でのこと。
あれは季節は10月という設定でした。そして、ニセアカシアの花のトンネルを香奈枝せんせとあやめさんが歩くシーンがありました。
実は、ニセアカシアの花期は5-6月なんですね。だから10月に「純白の、ニセアカシアの花群れを見上げながら、香奈枝とあやめは歩み続けた」というのはありえないことになります。
実は、当初この#26を書いた時は、時期を7月初めくらいに設定するつもりでした。それでもニセアカシアの花期には間に合わないのですが、ま、ひと月くらいの遅れなら許されるだろうと思ったわけです。
ところが、夏の内灘海岸は人でごった返します。砂丘もそうですが、近くに海水浴場もあって、夏の内灘は手軽な行楽地として人気があるのです。
ですからとうてい「二人の他は誰ひとりいない」なあんて状況はありえないんですね。まさか人前で抱き合っていちゃいちゃさせるわけにもいきませんし、内灘の落日の雰囲気も出ませんしねえ。
ですから、人気(ひとけ)の無くなる可能性の高い10月という設定にしたわけです。この時点でニセアカシアの花のトンネルはあきらめるべきだったのですが、あの美しさを書きたいという誘惑に勝てませんでした。
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6. Mikiko- 2013/09/18 19:39
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遡って直し始めると……。
アリジゴクに陥って、先が書き進めなくなるかもと思ったのです。
「2月の寒い頃」は、直した方がいいと思います。
10月のニセアカシアは、マズいんでないの?
気づく人は少ないと思いますが。
ま、“ニセ”だからウソでもいいのか。
10月の樹木の花と云えば、キンモクセイくらいでしょうが……。
海岸沿いには、あまり植えられませんね。
でも、キンモクセイの花のトンネルってのも、魅力的なイメージではあります。
咽せるほどの香りでしょう。
アカシアのままなら……。
いっそ、存在しない種にしたら?
秋咲きのアカシアで、アキアカシアとか。
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7. ハーレクイン- 2013/09/18 20:54
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『リュック』第十場第一景、下から30行目。
◆1年、ていうか、「10か月」くらい→「七か月」
『リュック』第十場第二景、台詞部分、上から10行目。
◆あやめの「荷物が綺麗に」無くなってた→「身の回りの品が」
◆書き置きを「1枚、」残してね。→(削除)
◆「卒業式もまだまだの……2月の」寒い頃だったな→「その年の……12月の」
お手数ですが、よろしくお願いします。
こうして見直していくと、細かい点で気になる部分はまだまだありますが、それこそ切りがありませんね。
さすがに海岸の、しかも砂地にキンモクセイは無理でしょう。キンモクセイのトンネルは、確かに凄い香りででしょうね。頭がくらくらしたりして。
ニセアカシア一件は、作者の無知のなせる技、ということにしていただきましょう。あ、でも前コメで全部ばらしちゃったなあ。
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8. Mikiko- 2013/09/19 07:26
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ご確認ください。
キンモクセイが無理なら……。
ニセアカシアが10月に咲くのは、もっと無理だろ。
10月に咲くと刷りこまれる人がいるかもよ。
生物講師がそれでいいのか?
アキアカシアで、いいんじゃないかな。
アカシアモドキとか。
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9. ハーレクイン- 2013/09/19 09:08
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お手数でした、ありがとうございます。
ニセアカシア10月開花説より、ニセ生物をでっちあげる方が罪は重いと思うぞ。
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10. Mikiko- 2013/09/19 19:38
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そんなこと言ったら、SFを全否定することになりますぞ。
実在のものでウソをつく方が、罪だと思います。
ていうか、ルール違反でないの?
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11. ハーレクイン- 2013/09/19 21:08
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SFではありません、実録小説です(おいおい)。
SFでは、世界そのもの、世界全体をでっちあげるわけですから、ニセ生物をいくら出そうが問題ないですね。
『アイリス』は、多少の齟齬はあれ現実世界が舞台ですので、そういうわけにはいきません。
大変だよ、まったく。
実在の京都が舞台なんて、やめときゃよかったなあ。
「ルール違反」。
そのあたりは、楽屋話までして事情説明したぞ。
「ニセ生物をでっちあげる方が罪は重い」。
これは作家(誰がや!)としてではなく、生物学関係者としての発言です。
まあしかし、実在の植物の花期を四か月もずらす罪も重いかなあ。
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12. Mikiko- 2013/09/20 07:43
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読まない人もいますからね。
本編に、脚注を入れます?
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13. ハーレクイン- 2013/09/20 13:20
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おお、えらい大事(おおごと)になってきたなあ。
コメを読まない人もいる。
そうなのか。
逆に、コメしか読まない人が多いと思ってた。
うーむ、どうしよう。
この手の話で脚注もなかろうと思いますが、その方が良ければすぐ書きまっせ。
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14. Mikiko- 2013/09/20 19:43
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誤謬をそのまま載せておくのは、管理人の責任でもありますので。
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15. ハーレクイン- 2013/09/21 03:12
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まあ、いいでしょう、掻きます欠きます。あ、いや、書きます。
以下『アイリス』#26の脚注ということで宜しくお取扱いください、管理人さん。お願いします。
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今回、ニセアカシアの花のトンネルを香奈枝せんせとあやめさんが歩くシーンがあります。
ところが!
実は、ニセアカシアの花期は5-6月なんです。物語世界では今は10月。だから二人がニセアカシアの花のトンネルを歩く、というのはありえないことになります。
当初この#26を書いた時は、時期を7月初めくらいに設定するつもりでした。
しかし、夏の内灘海岸は人でごった返します。砂丘もそうですが、近くに海水浴場もありますし、夏の内灘は手軽な行楽地として人気(にんき)があるのです。
ですからとうてい「二人の他は誰ひとりいない」なあんて状況はありえないんですね。まさか人前で抱き合っていちゃいちゃさせるわけにもいきませんし、内灘の落日の雰囲気も出ませんしねえ。
ですから、人気(ひとけ)の無くなる可能性の高い10月という設定にしたわけです。
この時点で「ニセアカシアの花のトンネル」はあきらめるべきだったのですが、あの美しさを書きたいという誘惑に勝てませんでした。
誠に申し訳ございません。
「10月のニセアカシアの花群れ」は作者の妄想ということで、伏して御願い奉ります。
……………………………………………………
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16. Mikiko- 2013/09/21 07:54
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入れさせていただきました。
これで、生物講師をクビになることも無いでしょう。
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17. ハーレクイン- 2013/09/21 11:56
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確認しました。
お手数でした、ありがとうございます。
ま、あまり反省もしていませんが(こら!)
授業中の失敗、失策、失言は数限りなくあります。
これらをどう取り繕うか、これも講師としての腕の見せ所。これに長けた者ほど、優れた講師との評価を得られるわけですね。
で、ずいぶん前から悩んでいるのですが、いわゆる「れる・られる」が未だによくわかりません。
「得られる」。
なんか変だな、と思うのですがどうでしょう。
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18. Mikiko- 2013/09/21 12:48
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「得れる」と言うんでしょうな。
ま、言葉は生き物ですからね。
文法は、あくまで後付けです。
「得られる」を使わないとなると……。
「得ることができる」でしょうか。
文章の長さなどによって、しっくりする表現が違ってくるかもしれません。
ハーレクインさんの文では、「得られる」の方がいいと思います。
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19. ハーレクイン- 2013/09/21 15:40
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まったく御説ごもっとも。
「られる」。
わたしは、可能を意味する場合、自信が無ければ「……ことができる」を用います。
今後『リュック』で「……ことができる」が出てきたら、“ははあ、おっさん自信がないんやな”とお考え下され。