2013.9.3(火)
アジサシは、空中から海面下の小魚を見つけ、高速でダイビングして捕らえるハンターだ。
「わたしはカモメ」
世界初の女性宇宙飛行士の言葉が、香奈枝の脳裏をよぎった。
「ヤー・チャイカ、わたしはカモメ……」
あ、ホバリング(空中静止)に入った。
魚を見つけたんだ。
香奈枝は心中で呟きながら、ダイブの瞬間を見ようと身を起こしかけた。そのとき、空中のアジサシと香奈枝との間に、人影が入った。
陽が陰った。
太陽を遮ったのはあやめだった。
あやめが香奈枝の前に立ち、上から覗き込んでいた。
あやめ……。
手を差し伸べる香奈枝に、あやめが覆い被さった。唇と唇が合わさる。互いの腕が相手の体を抱きしめる。脚と脚が絡み合う。抱き合う姿勢が本来の姿であるかのように……。
誰もいない二人だけの砂浜の只中。砂のベッドに抱かれ、二人の愛撫は続いた。
香奈枝は、あやめと舌を絡ませ合いながら思った。
さっきのアジサシ、どうしたかなあ。
狩に成功したかなあ。
あやめは、香奈枝の手を引き、立たせる。
「いくよ、香奈」
「え、どこへ?」
「海や、海に来たんやで、うちら。海に行かな」
「うん」
二人はもつれ合い、絡み合いながら波打ち際を目指した。すぐそこに見えているのに、渚は遠かった。乾いた砂に足を取られ、何度も転びそうになりながら、その度に悲鳴を上げ、抱き合い、支え合いながら海を目指した。
ようやく、二人の足もとの砂が硬く引き締まってきた。水際だ。気が付けば、波音が絶え間なく、一定のリズムで二人の耳を打っていた。
「あやめ、あやめぇ。うみよ、海だよ。うみだよお」
「なんや香奈。そないに海が珍しいんかい」
「だあって、あやめ。群馬に海はないんだよ。今まで海を見たのは一回だけ」
「ほうか、ほならたっぷり海を味わわなあ。いくよ、香奈」
あやめは、いきなり香奈枝を抱きかかえ、海の中に倒れ込んだ。香奈枝の全身が海中に沈んだ。
「ぐほ、げほ、ごぼ」
咳き込みながら、何とか香奈枝は立ち上がった。髪を振り上げ、顏を擦る。
「もう、なにするのよう、あやめ」
あやめの姿が見えない。
「え、あやめ、あやめえ、どこ」
あやめの姿はどこにも見えない。香奈枝は、心臓を鷲掴みにされたように立ち竦んだ。
「あやめっ」
引き波に乗り、沖に漂っていく人影が見えた。仰向けである。
「あやめえっ」
香奈枝は夢中でその人影を目指した。遥か彼方のように見えたが、実際にはそれほどの距離ではなかった。抱き寄せる。立たせる。立ってみれば水深は膝のあたりだった。
「あやめっ。大丈夫!?」
「ああ、香奈ぁ。そないに血相変えんでも。大丈夫や」
「もう、なによう。オフィーリアの真似なんかして」
「あはは、それもいいねえ」
香奈枝は、思い切りあやめを抱きしめた。
夕陽が海に沈んでいく。
香奈枝とあやめは、砂丘の上に並んで腰を下ろしていた。片腕で膝を抱え……もう片方の腕をあやめは香奈枝の肩に、香奈枝はあやめの腰に廻し……しっかり抱き合いながら内灘海岸の黄昏を眺めていた。
こんな光景がこの世にあるのだろうか。
香奈枝は、海に沈む夕陽を見詰めながら思った。
僅かな雲の浮かぶ天空全体を照らし、海の彼方に沈んでゆく夕陽は、世界全体を赤く染めていた。凄みのある赤色だった。
香奈枝は、隣のあやめの横顔を見詰めた。その端正な顔は夕陽に照らされ、天空同様、赤く染まっている。おそらく自分の顔もそうなのだろう。
濡れた服はもう乾いていた。
あやめの瞳から、一筋、涙が流れた。
「あやめ、なぜ泣くの」
「え? 泣いてへんよ、香奈」
「だってあやめ、涙……」
「さっきの海の水やろ」
香奈枝はなんとなく不安になった。胸騒ぎがした。この不安は今だけのものではない。
あやめとの付き合いが始まっておよそ半年。濃密な時間だった。抱き合わない日は一日としてなかった。あやめが香奈枝を縛らない夜は一度としてなかった。
あやめが厳しく言うので、昼間の授業を欠席したりすることはなかったが、それ以外の時間のほとんどを二人で過ごした。
二人の時間が合う時は、今日のように連れ立って出かけた。山へ登った。川で遊んだ。山間の鄙びた温泉にも行った。街中の名所旧跡を散策した。ほとんどが日帰りだから、行き先は市内や近郊だけだった。
しかし夏期休暇には泊りがけで遠出した。
香奈枝は京都に行きたいと言った。あやめの生まれた街を見てみたかった。あやめは京都は止めようと言った。理由は言わなかった。自分の生まれた街に行ってもつまらないのだろう、香奈枝はそう解釈した。
二人とも貧乏学生だ、そんなに贅沢な旅行は出来ない。二人が選んだのは隣の県、ホタルイカやチューリップ、トロッコ列車などで知られる県だった。別にどこでもよかったのだ、二人で過ごすことが出来れば。
そんな、蜜月のような日々の中、しばらく前から香奈枝は今のような不安を感じることがあった。あやめだ。あやめが時折、遠くを見つめるように物思いに耽るのだ。
幾度か思い切って聞いてみた、どうかしたの、と。その度にあやめは香奈枝を見つめ、微笑み、首を横に振りながら答えた。どないもせえへんよ、と。
だが、香奈枝の不安は去らなかった。あやめは間違いなく、何かに悩んでいる。
だが、今のように涙まで流すということは初めてだった。問い質したかった。何か悩みがあるなら話して、打ち明けて、相談して。
だが、できなかった。
恐かった。怖ろしかった。あやめの悩みの正体がわからないだけに、知ることが躊躇われた。
あやめはいったい……。
二人が見つめる夕陽の下端が、海上遥か彼方、水平線に接した。大きな太陽だった。赤く巨大な太陽だった。
太陽光が海面を赤く染める。赤い絨毯を海面に敷いたように、水平線上の太陽から海岸の二人にまで、赤い帯が一直線に伸びた。
「うわあ、すごい。ねえ、あやめ」
「せやねえ。うちもこんなん見るの、初めてやわ」
「ありがとう、あやめ。こんなの見せてくれて」
「礼はお天気に言い。ほら、雲一つないで」
香奈枝は上空をふり仰いだ。先ほどまで空にあった小さな雲は消えていた。雲量ゼロ。完全な快晴である。
天頂から東の空は、既に青黒く、闇に沈み始めていた。
「あ、月」
東の空、ニセアカシアの樹々の上に、半月が掛かっていた。上弦の月である。
「月は東に日は西に、ゆうやつやな」
「蕪村だね。菜の花や月は東に日は西に」
「相変わらずその手のをよう知っとるなあ、香奈。せやけど、勉強もちゃんとしてるかあ」
「してるよお。こないだ成績見せたでしょ。出席も皆勤だし」
「はは、せやったなあ。うちと付き合(お)うたおかげで勉強、手に付かんようになった、なんちゅうことにはさせられへんからなあ」
「はい、おかげさまで。厳しいあやめさんのおかげです」
「よっしゃ。ほな、キス、し」
「はあい」
キスを交わす二人の横顔を照らしながら、太陽の上端が最後の輝きを残して水平線下に没した。日没である。海面上の赤い絨毯は、かき消えた。
しかし空はまだ明るい。これから1時間以上をかけて天空は徐々に明るさを失い、星の輝きが増していく。
あやめと香奈枝は、それ以上、海にも空にも目を遣ることなく、いつまでも愛撫を交わし続けた。
コメント一覧
-
––––––
1. ハーレクイン- 2013/09/03 08:58
-
楽しかった内灘行、今回で終了です。
しかも、二人の間に、そこはかとなく影がさしてきます。いったいどうしたんでしょう、あやめさん。
>渚は遠かった
『遠い渚』はシャープ・ホークス
♪二人の愛は夏の日の夢 遠い遠い渚に捨てよう
『渚にて』はネビル・シュート。
人類滅亡ものの傑作。
>赤い絨毯を海面に敷いたように、
>水平線上の太陽から海岸の二人にまで、赤い帯が一直線に伸びた
これは実際に見たわけではありません。
ていうか、こんな光景、有り得るんですかね。
日の入りではなく、月の入りのときに、海面に白い帯が伸びる。この光景は画像で見たことがあります。これをパクッたんですね。
ま、フィクションだということでお許しいただきましょう。
-
––––––
2. Mikiko- 2013/09/04 07:47
-
いつの間に、半年も経ってったんだ。
てことは、これは秋のシーンですね。
2人とも、パンストは履いてないんだな。
日本海には、夕陽の名所が数多くあります。
↓新潟市でも、毎夏、砂浜で、『日本海夕日コンサート』が開かれてます。
http://www.niigata-kankou.or.jp/niigata-city/convention/event/1291.html
でも、わたしは、海に沈む夕陽を見た記憶が無いんですね。
忘れてるわけじゃなく、たぶん、ほんとに見たことが無いんだと思う。
なので、太陽から砂浜まで、赤い絨毯が伸びるかどうかは……。
わかりませんでした。
↓でも、画像を探したら、たくさんありましたよ。
http://blog-imgs-47.fc2.com/m/i/k/mikikosroom/2013090320362797f.jpg
わたしは泳げないので、波打ち際の戯れは、読んでて怖かったですけど……。
読者の中に映像を刻む、いいシーンだったと思います。
-
––––––
3. ハーレクイン- 2013/09/04 07:48
-
>いつの間に、半年も経ってたんだ
前回、『アイリス』#26のはじめの方に「今は10月半ば」と書いておろうが。
>2人とも、パンストは履いてないんだな
2人ともビンボだからね。パンストなんて贅沢は出来ません。年中、ナマ足にジーンズだよ。
パンストをいつ脱がせるか、考えなくていいから楽だよな。
「太陽から砂浜まで伸びる赤い絨毯」の画像、有難うございます。この画像を見た瞬間、「ああ、見たことあるぜ」と思い至りました。
そうか、頭の中のでっち上げではなく、記憶の産物だったか。よかったあ。
-
––––––
4. Mikiko- 2013/09/04 07:52
-
確かに、「今は10月半ば」とありましたね。
でも、あんなにサラっと地の文に埋められたら、見逃してしまうぞ。
場面転換の冒頭で、時間経過があったことを解説してほしかったのぅ。
-
––––––
5. ハーレクイン- 2013/09/04 18:10
-
そう言われれば、確かに読み手から見れば不親切、説明不足でしたね。こういうところが“あまちゃん”、独りよがりなんだよなあ。
で、投稿場所を移したのはええけど最後のコメ、ハンネが「HQ」になってまっせ。
-
––––––
6. Mikiko- 2013/09/04 20:10
-
ハンドルがクッキーに記憶されることを忘れ返っておった。
直しておきました。
書き直し、受け付けますよ。
ただし、先の原稿が滞らないことが条件ですが。
-
––––––
7. ハーレクイン- 2013/09/04 20:35
-
なあんのこっちゃ、理解不能でおま。
書き直しかあ。
やはり、そうしろ、ということなんだろうなあ。
先の原稿は、文字通り先の話だしなあ。
取りあえず、明日明後日あたり、雨がおさまったら京都に取材に行く予定です。
-
––––––
8. Mikiko- 2013/09/05 07:30
-
言っておりません。
ただ、そうした方が、時間の流れが正しく伝わるかと。
書き直しではなく……。
26回の冒頭に、「2人が出会ってから、半年が経っていた」的な文章を加えるだけでいいのでは?
いいですねぇ。
簡単に京都に行けて。
ついでに、風俗店の取材もしてください。
-
––––––
9. ハーレクイン- 2013/09/05 10:58
-
送付しました。宜しくお取扱いください。
京都の取材は、風俗やストリップや、ソープには行かんぞ。ま、ソープというと隣の滋賀だが。
「清く正しく美しく」。
-
––––––
10. Mikiko- 2013/09/05 20:07
-
差し替えました。
ほんとは、新旧版を対比表示させたいところですが……。
めんどくさいので、やめ。
「清く正しく美しく」ということなら……。
ぜひ、祇園で芸者さんを呼んでください。
-
––––––
11. ハーレクイン- 2013/09/05 21:16
-
確認しました。ありがとうございます。
「祇園で芸者」が、なぜ清く正しいんだろう。
-
––––––
12. Mikiko- 2013/09/06 07:54
-
キンチョーと恐れ多さで、助平心を起こす余裕なんかおまへんやろ。
-
––––––
13. ハーレクイン- 2013/09/06 09:42
-
一見さんお断り、やろ。
-
––––––
14. Mikiko- 2013/09/06 20:03
-
↓まだ生きてるようですね。
http://www.studio892.com/gion/okyaku.html
売れっ子の予備校講師に、常連さんがいるんでないの?
その人に連れてってもらったら?
-
––––––
15. ハーレクイン- 2013/09/06 22:17
-
売れっ子講師は忙しいよ。祇園のお茶屋なんぞに入り浸る暇はない。
それはともかく、あやめさんの受け入れ先は、やはり祇園にするかな。