2013.8.6(火)
香奈枝は、ぼんやりと目を開けた。
顔は窓を向いていた。
窓は仄かに明るく、夜明けが近いことを告げている。
香奈枝の顔の前には、自らの手があった
あれ、あたしの手、どうして。
香奈枝の両腕は、高手小手を解かれていた。胡坐縛りも、海老縛りも、全て解かれていた。香奈枝の回りには、それまで香奈枝を縛めていた縄が、数多くの縄が蜷局を巻く様に散らばっていた。香奈枝は、演技を終え、縄という衣装を全て脱ぎ捨てた一糸まとわぬ女優のように、床に伏していた。
香奈枝は、改めて手首に目を遣る。手首には、生々しい縄跡がくっきりと残っていた。香奈枝は手首を見詰めるだけだが、その二の腕にも、胸にも、脛にも、手首と同様の縄跡が、先ほどまでの緊縛の名残をくっきりと留めていた。
香奈枝は、自らの手首に残る縄目の跡を見、擦りながら思う。
そうか……あたしは縛られたのだ。
生まれて初めて、縛られたのだ。
つい昨夜、知り合ったばかりの、
しかし、とおい遠い昔からの知り合いのような、
愛しいあやめに縛られたのだ。
つらかった。
苦しかった。
死ぬかと思った。
しかし……それ以上に……。
あれは何だったんだろう。
縛られるというのは、何なんだろう。
自分の身が自由にできない。
いや、自由に動くことを許されない、圧倒的な束縛感。
自分を他者の完全な支配下におくという、自虐感。
他者の、あやめの、思うがままに体をゆだねる被虐感。
いや、あれは被虐であり、束縛でありながら、
限りない解放感だった。
自由だ。
あたしは自由なのだ。
束縛を受け入れ、突き抜けたとき、人は限りなく自由になれるのだ。
香奈枝は今、この古いアパートの一室に横たわり、曇ったガラス窓の向こうの薄明を見詰めながら、大空を悠然と舞うイヌワシに、ユリカモメに、オオミズナギドリになったような気分だった。
香奈枝の脳裏に歓喜が弾けた。
踊り出したかった。
叫びたかった。
あたしは、あたしは……。
「香奈ぁ、目ぇ、覚めたぁ」
「ああ、あやめぇ、どこ、行ってたの」
「トイレや、おしっこ。香奈、あんた、大丈夫かあ、おしっこ」
「うん、大丈夫。それよりあやめ、縄、全部ほどいたん?」
「そらそや。あんまり長いこと縛ってたら体に悪いからなあ。そのあたりの見極めも大事なんやで、緊縛ではなあ」
「ふうーん」
「なんや香奈。ほどいて欲しなかったんか」
「うーん、そうねえ」
「なんや香奈。一度縛られただけで、しっかり嵌まってしもたかあ」
「うーん。あのね、あやめ。今あやめがいない間に目、覚めてね。そしたらいろいろ考えてね、縛られるって、何なんだろう、とか」
「そないなこと、考えても言葉で言えるかいな。よかったやろ、気持ちよかったやろ、香奈枝。それでええんや」
「うん。痛くて、苦しくて、いやだ、と思ったこともあったけど、そういうのも全部ひっくるめて、いいなあ、と思うよ、縛られるって」
「香奈ぁ」
あやめは香奈枝を押し倒す。頭を抱え込み、髪を撫で、激しく唇を合わせる。舌を吸う。舌を押し込む。絡ませる。
「むあ」
「ぐふ」
「うああああああ」
「あむ」
二人は互いの両腕で相手の体を抱え込む。抱き締める。少しでも力を緩めれば、その途端に相手が消えてしまうのではないか。そんな恐れに捕らわれるように、少しの隙間も恐れるように、互いの体を密着させる。その抱擁は、相手の体と一体になろう、とでもいうような激しさだった。
「香奈、かな、香奈、香奈えぇ」
「あやめっ、あやめ、あやめぇっ」
次第に明るさを増す窓明かりの中、香奈枝とあやめの抱擁は、いつ果てるともなく続いた。
香奈枝とあやめは、並んで窓際の壁に凭れ掛かり、グラスに注いだ生のウィスキーを飲んでいた。あやめは服を着ているが、香奈枝はまだ全裸である。
グラスは一つ。自分が飲んで相手にグラスを渡す。飲んでグラスを返す。飲んだウィスキーを口移しに相手に飲ませる。飲まされたウィスキーに自らの唾液を混ぜ、相手に飲ませる……。
飲んでいるのか、戯れているのか、そのうちにウィスキーの瓶は空になった。
「ああ、お腹すいたねえ、香奈」
「そうねえ、あやめ。でも、まだどこも店、開いてないよね、こんな時間じゃ」
「いやあ、うちが作るよ」
「え、あやめって、料理できるの」
「こら、忘れたんかいな。うちは京の料亭の娘やで。料理は得意中の得意や」
「ああ、そうだったねえ。あたしは全くダメだから、料理。でも、手伝うよ」
「ええ、ええ。しろうとに手ぇ出されたら、かえって邪魔や。それより香奈。豆腐、買(こ)うてきてぇや。階段下りて右ぃちょい行ったら豆腐屋さんあるから。もう開いてるはずや」
「うん、わかった。行ってくる」
香奈枝は手早く服を身に着け、部屋を出て行った。
あやめは米を研ぎ、土鍋に張った水に米を入れ、火にかける。野菜を刻み、戸棚から塩鮭の切り身を取り出す。
入り口のドアが騒々しく開いた。
「なんや香奈、早かったなあ」
「あやめぇ」
貴子だった。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2013/08/06 08:17
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書きたかったこと、というのを前回のコメに書きましたが、実はもう一つありました。
これもずっと以前のコメに書いたことなのですが(いつどこで書いたかは失念)、「縄を解かれた女性、特に生まれて初めて縄を掛けられようやく解かれた女性は、身体に残された縄目の跡を見ながら何を思うのだろう」ということでした。
これはもう、全く想像の埒外なのですが。何とか頑張って書いてみました。成功したのかどうか、真実のかけらでも書けたのかどうか、もちろん自信などこれっぽっちもありません。
ご意見、ご批評を頂ければ本当に嬉しいです。
お貴さんがあやめさんのアパートにやってきました。この早朝になんでしょう。これから修羅場に突入するのでしょうか。
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2. Mikiko- 2013/08/06 19:33
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何を作るつもりなんでしょうね。
> 土鍋に張った水に米を入れ、火にかける。野菜を刻み、戸棚から塩鮭の切り身
これに、豆腐が加わるわけだ。
うーむ。
鮭雑炊?
でも、豆腐がなぁ。
あ、豆腐は案外、冷や奴かな。
で、雑炊が炊きあがるまで、一杯やるわけだ。
ウマそうすねー。
特に、運動の後だから。
わたしは出来れば、塩鱒にしてほしかったけど。
お貴さんって、誰じゃ?
社会党党首か。
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3. ハーレクイン- 2013/08/06 20:29
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あやめさんが何を作るつもりなのかは、次回のお楽しみ。ていうか、そんなに複雑に考えることはないよ。土鍋、で惑わされるんだろうなあ。
塩鱒って、なじみがないなあ。ま、鮭鱒(けいそん)類と括るくらいだから、いずれ塩鮭と似たようなものであろうが。
それよりなにより、まあたまたまた読み飛ばしておるな。
「お貴」は三原貴子、あやめさんの同僚にして恋人を、あやめさんが呼ぶ時の呼び名であろうが。
『アイリス』#1にすでに登場し、あやめさんから5回「お貴」と呼ばれておる。その後#2、#3まで出演、今回久方ぶりの登場じゃ。
きちんと読むように。
“もう少し頑張りましょう”。
社会党元党首は「たか子」だぞ。
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4. Mikiko- 2013/08/07 07:41
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普通にご飯を炊くんでしょうかね?
じゃ、野菜と豆腐は、お味噌汁か。
土鍋炊きのご飯、お焦げが美味しそうだ。
塩鱒は、鮭よりも旨いです。
昔買ってたネコも、これが大好物でした。
『アイリス』#3の投稿は、2月24日。
ほぼ半年前です。
一気通読してる読者以外、覚えてるわけありまへん。
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5. ハーレクイン- 2013/08/07 10:15
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>塩鱒は、鮭よりも旨い
ふむ。
鱒というのはどうも鮭より下に見られているようです。わたしは(たぶん)一度も食べたことない。
>ほぼ半年前……覚えてるわけありまへん
なんだよう。お貴さんのことは、あれだけ書き込んだのになあ。
わたしは五年前投稿の『由美美弥』、隈なく覚えておるぞ(大ウソ)。
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6. Mikiko- 2013/08/07 19:44
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区別が判然としないみたいですね。
こっちでは、ぜんぜん別の味の魚なんだけどな。
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7. ハーレクイン- 2013/08/07 23:19
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例によってWikiの引き写しです。
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〔サケマス混乱の歴史〕
サケマス研究が欧州に後れを取っていた日本では、名前を付ける際に、淡水産はマス・海産はサケ、小さいのはマス・大きいのはサケなどのように単純に区分していた。
ところが後に陸封型であるヤマメやイワナなども途中でダムなどのない場所ではサケと同様の生活史を送っていることが判明した。遺伝学の進歩により、アミノ酸解析やDNA解析によって進化系の研究が進められている。また、日本海の地殻移動による閉鎖性なども考慮する必要がある。近年では、岐阜県水産試験場・当時場長であった本荘博士によって「サケに似た変な魚」としてサツキマスと名付けられた長良川の魚が、アマゴの降海型であると発見されたこともある(発見者は水産試験場研究員の俵氏)。
混乱は現在もなお継続している。
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なんともどうも、よくわかりませんね。
フクロウとミミズクみたいなものかなあ。