2013.1.17(木)
波の音さえ届かぬ静寂の中、奈緒美は響子の身体が音も無く離れて行くのを感じた。
そしていつの間にか、奈緒美の心を悲しみが支配していた。
響子は全裸のまま立ち上がると、月の光が差し込む窓辺へと歩いて行く。
追いすがろうと身を起こすと、何故か奈緒美自身はもうその身体にナイトウエアーをまとっている。
「行かないでっ、響子さん!」
響子は月の光の中へ入るとゆっくりと奈緒美を振り返った。
「ありがとう、奈緒美ちゃん、あたしとても幸せだったわ・・・。でももう、お別れしなくちゃならないの。本当に嬉しかった・・・。さよなら、奈緒美ちゃん・・・。」
「いやっ! い、行かないでっ!」
奈緒美は夢中で響子に向かって叫んだ。
だが響子は月の光にその輪郭が輝いたかと思うと、徐々に小さい光の粒に分かれる様にして、奈緒美に微笑みながらその姿をおぼろにしていくのだった。
「ああっ、待って! ・・・いやっ! ・・ああっ・・・。」
叫びながら奈緒美の目に涙が溢れた。
響子の姿はもう薄っすらと輝きの粒の集まりになり、窓の外が透けて見えるように消えかかっていた。
「さようなら・・・奈緒美ちゃん・・・。」
「ああ・・・・、響子さん・・・待って・・・・・。」
暗がりに差し込む月の光だけになった場所を見つめながら、奈緒美の頬を幾筋もの涙が伝い落ちた。
奈緒美はふと目を覚ました。
昨夜の普段着のまま、ソファーに横たわった身体に毛布が掛けられている。
明るい朝日が部屋に差し込み、開け放たれたテラス戸からそよ風が潮の香りを運んで来る。
「響子さん・・・。」
まだ胸を締め付ける思いを感じながら、奈緒美は身を起こして響子を探した。
部屋の中から外のテラスへ視線を移した時、手摺に寄りかかって景色を眺める響子の姿があった。
身に纏った白いシーツがゆらゆらと風になびいている。
「響子さん、ここにいたの。」
奈緒美はテラスへ出ると背中から響子に声をかけた。
「ああ、奈緒美ちゃん、おはよう。昨夜はよく眠れた?」
「え、ええ、まあ・・・。」
奈緒美は自然と顔が火照るのを覚えながら答えた。
響子はそんな奈緒美を例の悪戯っぽい笑みで覗き込む。
「楽しかったわね。でも、あたしをほっといて先に寝ちゃうなんて、ずるいわよ、もう・・・。」
「ご、ごめんなさい。あたしったら、いつの間にか・・・。」
「あはは、いいのよ、そんなこと。あははは・・・。」
「ほんとに楽しかった・・・。有難う。」
奈緒美は響子の瞳を見つめながら言った。
響子はまたすっと海の方を向くと、真顔に戻って口を開く。
「あたしちょっと今日用事があるのを忘れてたから、急いで次の電車で帰ろうと思うの。ごめんね。でも楽しかった・・。あなたのこと、忘れないわ。」
そう言って、響子は部屋の中へ戻って行く。
「ええ!? ちょっと待って。じゃあ、あたしも駅まで送るわ。」
思いがけず早くなったお別れに、慌てて奈緒美は響子の後を追った。
タクシーを降り二人がホームに駆け込んだのは、もう発車の5分前であった。
間に合ったことを確信した二人は、ほっとして電車の前のベンチに腰を下ろす。
平日の昼間のことで、周囲に乗客もまばらなようである。
「はあ・・間に合ってよかった・・・ふう・・。」
響子は大きく息を弾ませながら言った。
奈緒美はもう堪らなくなって響子に訴える。
「ねえ響子さん、よかったら携帯とか連絡先を教えて。せっかくお友達になれたんですもの・・・。それに昨日の焼き物だって、一週間後に出来るんですって。色々ご馳走になったお礼に、ううん、記念に響子さんにプレゼントしたいの・・。」
響子はそう訴える奈緒美の目をじっと見つめた。
そしてやおら自分の荷物を取り上げ、何やらバッグの中をごそごそと探り始めた。
やがて響子がバッグから掴み出したものは、インテリア用であろうか、壁掛けのベティーちゃんのお面の様な物であった。
響子はそれを被って奈緒美の方を向いた。
「これ、ちょっといいでしょう? どう? あたし可愛い・・・?」
ベティーちゃんは奈緒美に楽しげに笑いかけている。
「響子さんったら・・・。もういいから、ねえ携帯でも教えて。」
奈緒美は苦笑しながら響子をさらに問い詰める。
ベティーちゃんは少しの静寂のあと話し始めた。
「奈緒美ちゃん・・。あなた昨日の夜、うなされながら何度もあたしの名前を呼ぶのよ。そして最後に・・・、行かないでって叫んだの。あたしもう、あなたのことが可愛くて・・・、黙ってほっぺにキスしちゃった。ごめんなさい・・・。」
奈緒美は言葉を返すことが出来なかった。
身が震える様な満足感を覚える一方、冷静になろうとする自分を感じる。
「だけどその時、あなたが言った映画の話・・・。大事な人だから会わない、愛してるから会えないっていう言葉を思い出したの。あなたの暮らしは、あたしと一緒には無いのよ。昨日からの事はすべてまぼろし・・・。」
電車に乗り込もうとする人たちが、お面を被った響子を見ては笑いながら通り過ぎて行く。
ベティーちゃんは相変わらず奈緒美に笑いかけていた。
「もう響子さん、お面取ってっ・・。」
奈緒美は堪りかねて響子のお面をはぎ取った。
その下から、悲しみに歪んで目を潤ませた響子の顔が現れた。
「響子さん・・・・。」
奈緒美はその時悟った。
夢の中でオレンジ色に輝いた響子の手の光は、奈緒美自身の心であったことを。
そして響子を淡い輝きに消し去ったのも、いつの間にかナイトウエアーに身を包んだ奈緒美自身であったことを。
ホームに発車を告げるアナウンスが流れ始めた。
響子は立ち上がって電車の方へ歩きながら言った。
「じゃあ奈緒美ちゃん、お幸せにね。ほんと楽しかった、元気でね。」
奈緒美は小走りに響子の背中を追った。
胸が詰まって何も言葉が出てこない。
電車のドアの内側に立つと、響子は奈緒美に優しく微笑みながら言った。
「泣かないのよ、奈緒美ちゃん。じゃあ・・・・、さよなら。」
その言葉を聞いたとたん、奈緒美の目から涙が溢れだした。
電車のドアが閉まると、響子はもう別の世界の人になった。
「はあ・・・ああ・・響子さん・・・。」
ガラス越しに響子の顔を見つめながら、奈緒美の頬を幾筋もの涙が流れ落ちた。
ゆっくりと電車はホームを滑り出て行き、最後のキャンパスである電車の窓の中の響子が遠ざかっていく。
やがて中から見返す響子の視線も届かなくなり、奈緒美はゆっくりと睫毛を伏せた。
電車の中はほとんど客もまばらな状態だった。
「・・・ひっ・・・くっ・・・・。」
響子は人が居ない辺りを選んで席に付くと、肩を震わせて泣いた。
誰も居ないと思っていたのに、後ろから一人の老婆が歩み寄り、響子の斜め前に座った。
「お別れは悲しいわよねえ・・・。」
老婆の声に、響子はしゃくりあげながらその顔を見た。
「でも大丈夫。私も沢山の人とお別れしたけど、悲しみを忘れようとしなくても、人は必ず新しい喜びに巡り会うものよ。」
老婆は響子に優しく微笑みながら言った。
「うっ・・・くっ・・・。」
響子は肩をわななかせながら、やっと泣き笑いの表情を浮かべた。
「あなたは、あまり泣かない人ね。すぐ泣く人は慣れてるから恰好つけてるけど、あなたはまるで子供みたいに泣いてるんだもの・・・。」
老婆は手提げから一つの果物を取り出して響子に手渡した。
「これはあたしの農園で取れたオレンジよ。とっても甘くておいしいよ。後で食べてごらん。」
そう言うと老婆は前の方へ去って行った。
響子は温かい気持ちになりながら、両手の中の果実を見つめた。
それは窓から差し込む日の光に照らされて、涙の溢れる響子の目には、なおさら明るくオレンジ色に輝いていた。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2013/01/17 11:19
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今回で終わりですかい『海辺』。
なんぼでも話を続けられると思いますがのう、八十郎さん。
>「……大事な人だから会わない、
>愛してるから会えないっていう言葉を思い出したの。
>……昨日からの事はすべてまぼろし……」
ふむ。
“海辺”のことは、すべて夢、幻ですか。
ありがとう、八十郎さん。
私の感想は、↓この歌に尽きます。
♪恋は短い夢のようなものだけど
女心は夢を見るのが好きなの
……
喜びも悲しみも
みんな夢の中
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2. Mikiko- 2013/01/17 19:45
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必ず再会がありますよね。
続編を期待しましょう。
『海辺の光景』。
安岡章太郎に、同名の小説があります。
ただし、読みは、“かいへんのこうけい”。
芸術選奨を受賞し、安岡の作家的地位を確立させた作品。
この作品、わたしには苦い思い出しかありません。
2回ほど読み始めたんですが……。
共に、数ページで挫折したんです。
だって……。
おもろくないんだもん!
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3. ハーレクイン- 2013/01/17 20:47
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何度チャレンジしても、必ず挫折する小説。
>だって……。
>おもろくないんだもん!
血を吐くような叫びですが、わたしもいくつも身に覚えがあります。
んで、わたしくらいの歳になりますと、この先死ぬまでに何冊読めるか、という段階に入っております。
自分でおもろくない、と思う小説にこだわる必要もなくなってきました。
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4. Mikiko- 2013/01/18 07:38
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おもろくない小説を読んでる時間なんて、とてもありゃせんわな。
そうしてみると……。
おもろくない小説を無理して読めるのは、若さの特権と云えるんでしょうか。
でも、今の大学生とか、ヒマじゃなさそうですよね。
一生懸命勉強しなければ、就職も出来ないようです。
そう言えば、明日はセンター試験。
新潟は、やはり雪になりそうです。
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5. 淡雪- 2013/01/18 17:45
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さよなら。
でも、きっと、また会える。
わたくしも、そう信じます。
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6. ビビ 八十郎- 2013/01/18 19:11
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みなさんに読んでいただき、このようにコメントまでいただき感謝しております。
この物語は、ビビという名前で書きました。
と言うか、時代物の2作だけが“ビビ”ではおかしかろうと思い、八十八十郎になったのです。
女性同士の関係には、、
どうしても立ち入れない聖域があるんです。
それが故に、私にとって結末や行く末はオブラートに包まれてしまいます。
この二人が再会して、ああこうなんだ
と思える時が来るかどうかは分かりませんが
ただせめて僅かでも、人物の情念や自然の風の匂いを感じていただけるように願うしかありません。
年の瀬に食べていた鰤。
若い頃は好きではなかったのに、
今はとても美味しく食べられます。
年を追いつつ、
皆様に新たな喜びが訪れることを願っております。
ありがとうございました。
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7. ハーレクイン- 2013/01/18 21:34
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ブリの子供がハマチ。
ハマチの味は子供の味、誰にでもわかる。
ブリは大人の味、年月を重ねた者にしかわからない。
八十さんも大人になった、ということだ(よく見たら偉そげな言い方)。
>時代物の2作だけが……八十八十郎
あれ?
ということは『初孫』も、もともとはビビ名義だったということですか?
今年もよろしくお願いします。
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8. 八十郎- 2013/01/19 18:08
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初孫はビビという作者名なんですね。
元禄江戸異聞と続編だけが八十郎です。
ビビという名前は、風と共に去りぬではなくて
ほぼ「エマニエル夫人」と同時期に出た(1976年?)
「熟れ過ぎた少女ビビ 16歳」
という映画からいただきました。
何だかスゴイ題名ですが(笑)
ジョセフ・W・サルノ(ジョー・サルノ)という監督の作品で
なかなかエロチックな映画を見せてくれました。
僕にとってレスビアン映像はこれ、
読み物は梶山季之の「苦い旋律」
カルチャーショックでした。
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9. ハーレクイン- 2013/01/19 21:12
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映画『熟れすぎた少女BiBi 16歳』は、1974年公開となってました。
主演はスウェーデン女優のマリー・フォルサ。
なかなかエロい映画のようですね。
『エマニュエル』も74年公開。
もう、40年近く前になるんですねえ、あの大騒ぎ。
こちらの主演は、言わずと知れたシルヴィア・クリステル。何と昨年10月、オランダ、アムステルダムの病院で脳卒中により病没されていました。いやあ、知らなかった。
享年60歳。
ご冥福をお祈りします。
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10. 淡雪- 2013/01/20 10:57
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そうそう、わたくしも最近知りました。
お綺麗でしたよね。
淫蕩なのに、少年ぽい感じで。
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11. ハーレクイン- 2013/01/20 18:18
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実に的確なクリステル評ですねえ。
ひょっとして、滝川クリステルと関係が……と思って調べたのですが、関係なさそうです(そらそやろ)。