2012.10.18(木)
時ならぬ嵐の到来に、木の葉を舞い上げた風が不気味なうなりを発して吹き抜けていく。
まだ暗い闇に日の出を告げるものは、空に厚く垂れこめた雲の隙間から漏れる微かな明るみだけであった。
その空からぽつぽつと大きな雨粒が落ち始めると、伊織と羅紗姫はふとその足を止め、前方の寺の山門を見つめた。
森の手前にひっそりと山門の影が浮かび上がり、その楼閣の中に灯火の瞬きが見える。
伊織は傍らの姫に声をかける。
「姫・・・。」
「はい、伊織様。」
二人は暫時見つめ合って頷いた。
おもむろに取り出した白布でたすき掛けをして、額には鉢巻を巻く。
身支度を終えた伊織は悲壮な眼差しで山門を見つめた。
姫の命を守るためには、最後の手段は相手と刺し違える覚悟である。だがその手段も通じる相手かどうか。
伊織はそんな迷いを振り払うように、しばしじっと目を閉じた。
羅紗姫も血の気の引いた唇を結んで、震える両手を握りしめた。
「さあ姫、参りましょう。」
「はい。」
二人は吹きすさぶ風に鉢巻を翻しながら山門へと足を踏み出した。
美夜叉は静かに目を閉じたまま、鈍く蝋燭の灯を映した板張りに坐している。
傍らには猿轡を噛んで縛られたお美代が、目を怒らせて板張りの上に転がっていた。
「水月・・・。」
鬱々とした低い声が水月の名を呼んだ。
「はい・・・。」
美夜叉の右手に坐している水月は、うつろな瞳を床に落としたまま答える。
「水月・・・・、もう勝負は案ずることもないと思うが、念の為に言っておく。赤蛇尼の話からして、おそらく相手は居合の使い手。最初の一撃を避けて切り合いになれば、まずお前の相手ではない。いずれ始末は出来るとしても、要らぬ痛手を受けることはないでのう・・・。」
「・・・・。」
水月はその言葉にも、切れ長の目を細めて微かにまつ毛を煙らせただけであった。
それとなく水月の表情を窺った美夜叉は、ふと視線を正面に戻してつぶやいた。
「ん・・、どうやら参ったようじゃ。」
しばらくすると楼閣へ登る階段の軋みが聞こえ始め、部屋へ入る板戸が音もなく開いた。
薄暗い中から、凛々しく果たし合いの姿に身を包んだ若侍の姿が蝋燭の明かりに浮かびあがる。
伊織と羅紗姫は、床に転がったお美代の姿に思わず目を見開いた。
油断なく部屋の中へ足を踏み入れると、決然と正面に坐した美夜叉を睨みつける。
そんな殺気も感じぬように、美夜叉はゆっくりと両手を付いて羅紗姫にお辞儀をする。顔を上げると、その表情にうっすらと笑みさえ浮かべて口を開いた。
「さすが羅紗姫様。自らここまで来られたお覚悟、この美夜叉、感服至極にございます。そのような姫君がお世継ぎなれぬことは私とて残念なこと・・・。しかしこれも私どもの役目とご承知くだされ。恐れながら羅紗姫様、お命・・・頂戴つかまつります。」
それを聞いて前に出ようとした伊織を制して、きつく美夜叉を見据えながら羅紗姫は言った。
「言われる通り、私はここへ出向きました。私の命の如何にかかわらず、お美代の命は助けるとお約束下さい。先にここで、お美代をお解き放ちください。」
語気鋭い姫の言葉に、思いついたように美夜叉は答える。
「ほお・・、ますます立派なお心がけ。ですが私はお美代の命と引き換えにお越しを願っただけ。確かに命は奪いませぬ・・・・。ですが、解き放つとは申しておりませぬぞ。」
「なっ、何と!」
色めき立って叫ぶ姫を背中にかばうと、伊織は口を開いた。
「美夜叉とやら、ではこの刀にかけてお美代を救うまでだ。参るぞ!」
美夜叉は相変わらず薄笑いを浮かべたまま答える。
「ふふ、おとなしく牢の中におればよかったものを・・。見事我らを打ち負かしてみるかっ!!」
美夜叉の言葉尻が殺気立って響いた時、傍らに控えていた水月がゆらりと立ち上がった。
蝋燭の炎に揺らめくように伊織の正面に立ちふさがる。不気味にもその眼差しは目の前の板張りに生気も無く向けられたままであった。
背筋が寒くなる様な殺気を覚えながら、伊織は腰を落として一撃必殺の構えを取った。
改めてその妖気を漂わせる相手を見つめる。
“・・はっ・・・!!!”
伊織の目が驚愕に大きく見開かれた。
「しっ、静さまっ!!」
伊織は思わずその名前を呼んだ。羅紗姫が驚いて伊織の顔を見る。
「す、水月。こやつのことを知っておるのか・・?!」
美夜叉も背中から水月に問いかけた。しかしその問いかけにも水月は表情を変えず、憂いを含んだ瞳を伏せたままだった。
伊織は我を忘れて一心に水月の顔を見つめる。
やがて水月はゆっくりとその眼差しを上げた。
「いいえ、知りませぬ・・。このような者には、会ったことも・・・ありませぬ。」
感情の無い陰鬱な声が響いた。
「しっ、静さまっ・・・・!」
驚きと悲しみに見開かれた伊織の目を見ながら、水月は続けた。
「伊織とやら・・・。何を血迷うておるのか知らぬが、そのままでは戸惑うたまま冥土へ向かうことになる。・・・参るぞ・・・。」
水月の反りの入った刀が音もなく抜き出され、蝋燭の炎にきらめいた。
「静さまっ!待って下さい!!」
その叫びも耳に入らぬが如く、大刀を右手に下げた水月は滑るように伊織に近づいていく。
「待てっ! 水月っ!!」
居合を案じた美夜叉の叫びにも、伊織は大刀を抜くことさえ出来ない。
伊織の肩先に目にも止まらない速さで水月の大刀が輝きを放った。
反射的に身を反らせた伊織の身体は、辛うじてその刃を避けて板張りに転がった。
その勢いで灯っていた蝋燭が倒れ、小さな炎が板張りに広がる。
水月の二度目三度目の太刀を、伊織はただ身を転がして逃げ回るばかりである。
四度目の太刀が袖を切り裂いた時、もう伊織の背中は板戸に詰まって逃げ場を失っていた。
水月の大刀が何故かゆっくりと頭上に振り上げた。その瞬間、
「伊織様っ!!」
両手に懐刀を握りしめた羅紗姫がその間に飛び込んで行く。
身を交わした水月の大刀の柄が姫の脇腹をえぐった。
身を丸めた姫の上に水月大刀が振り下ろされた時、
“ギンッ!!”
ぎらついた音が響いたかと思うと、伊織の抜いた太刀が羅紗姫の頭上で水月の太刀を受け止めていた。
精一杯の力で伊織がその太刀を跳ね返すと、水月も飛び下がって態勢を整える。
水月の後ろでは、先程倒れた蝋燭の炎が大きく燃え上がり始めていた。
伊織は両手で大刀を握りしめ、歯を食いしばって立ち上がった。それを見つめる水月の瞳が微かに輝きを増している。
水月は八双の構えを取ると、何故かゆっくりとその太刀を伊織にかざした。
“はっ・・・、あれは静さまのお父様の・・・。”
その反りの大きい刀を見ながら、伊織の脳裏に在りし日の光景が蘇った。
「静、菊、・・この反りの大きい刀は触れただけでよく切れる。相打ちに近ければ、この刀は先に相手の身体を走るのだ。ははは、太刀捌きの上手な静が使えば天下一品じゃ。では菊、お前も負けずに達者だが、そのような相手の時、お前ならどうする? ・ふふふ、分からぬか? ・・・菊、そのような時は・・・。」
「・・・そのような時は・・・。」
伊織が口の中に小さく呟いた時、水月の顔が微かにほほ笑んだように見えた。
次の瞬間、目にも止まらぬ速さで水月の刃のきらめきが袈裟懸けに伊織を襲った。
伊織は我知らず片膝をついていた。
目の前に突き出した両手の先で、伊織の大刀の輝きが水月の身体を貫いていた。
「き、菊・・・、見事・・・。」
呆然とした伊織の目の前で、大刀を腹に抱えたまま水月の身体がゆっくりと崩れ落ちていった。
我を忘れて身を起こそうとした時、
「あっ!!」
伊織は右肩を襲った激痛に身を転ばせた。
美夜叉の大刀が不意を衝いて伊織の右肩を襲ったのである。
伊織は必死で水月が落とした大刀に手を伸ばしたが、その右手は痺れて、もうそれを掴むことさえ出来なかった。
「これが最後じゃ、覚悟せい!」
無念の思いで見上げた伊織の頭上に、美夜叉の大刀が振り下ろされる。
「ぐっ・・・・!!」
右手で刀を振り上げたまま、詰まった呻きと共に美夜叉の動きが止まった。
「ぐ・・・、な、何故・・・水月・・・・。」
自分の身体から抜き放った水月の刀が、背中から美夜叉の身体を貫いていた。
必死に刀を握りしめ背中に縋り付きながら、水月は喘ぐ様に美夜叉に語りかける。
「はあ・・・、び、美夜叉さまは・・・どこまでも、わ、私と一緒だとおっしゃいました・・。どうか・・・どうか・・このまま・・私と一緒に・・・。」
震えながら絡み合って佇む二人の周りでは、もう天井にも届くように炎が燃え上がっていた。
バチバチと弾ける様な音を立てて、燃えついた天井が落ちかかる。
美夜叉は水月の言葉を聞くと、その右手の大刀を力なく落とした。
ゆっくりと目を閉じ、振り向いてきつく水月の身体を抱きしめる。
そんな様子にお美代は必死で身を転ばした。
投げ出された水月の大刀まで転がると、その刃に後ろ手を押し付けて縄を切ろうとする。
指が切れる痛みを我慢して押し付けた先で、縄の力がふっと緩んだ。
身を弾ませて後ろ手の縄を解くと猿轡を外す。
「伊織様っ! しっかりしてっ!!」
呆然としたままの伊織に駆け寄るとその名を呼んだ。
頭の上からは、もう燃え付いた天井の炎が次々と降りかかってくる。
「ああ・・、お美代ちゃん・・。」
その声にやっと伊織は我に返った。
「ここはもう燃え落ちますっ! 姫はあたしがっ・・・、さあっ早くっ!!」
やっと伊織を起すと、お美代は倒れた姫の身体を担ぎ上げる。
必死で部屋の板戸を出た時、中の天井がみるみる大きな音を立てて崩れ始めた。
思わず伊織が振り返ると、抱き合った美夜叉と水月の姿が炎の中に消えていった。
「伊織様っ、早くっ!早くっ!!」
左官の手伝いで鍛えたお美代は、姫の身体を担いで階段を下りながら叫ぶ。
やっと山門の外に逃げ出した三人の身体を激しい雨が叩いた。
「山門が崩れる。もっと遠くにっ!」
お美代の叫びに導かれるように、伊織はよろめきながら走った。
“ズズ~ン!!!”
地を揺るがす音に二人が振り返ると、土砂降りの中で炎を吹き上げながら山門が崩れ落ちた。
江戸の長屋の娘お美代は、戦いの最後に伊織と羅紗姫の命を救ったのである。
「はあっ・・・はあっ・・・、お、終わった・・・。」
激しい雨に全身を打たれながら、伊織はがっくりと両膝を付いて呟いた。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2012/10/18 08:30
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伊織ちゃんって、居合の使い手だっけ。
ふむ。
それが刀を抜かされては勝ち目はないなあ。
と思ったら静姉さま。
可愛い菊ちゃんを斬ることはできなんだか。
菊ちゃんの必殺の突きに倒れる静姉さま。
美夜叉を道連れに……。
さすがの策士、美夜叉も、水月の心中までは読めなんだか。
火中に没する水月、美夜叉。
ま、無理心中というところかなあ。
大活躍のお美代ちゃん。何と羅紗姫様を引っ担いで山門の外へ。親の手伝いはしておくもんだなあ。
目出度しめでたし、というところだが、この後どうなるんだろうね。
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2. Mikiko- 2012/10/18 19:51
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鞘から抜き放つ動作で、相手に一撃を加える術なわけだから……。
いったん抜いてしまったら、逆にどうしようもないんじゃないの?
余裕があれば、もう一回、鞘に収められるんだろうけど……。
そんなことが出来る相手なら、抜くときに仕留めてるでしょうし。
わたしは昔、五味康祐の剣豪小説が好きで、よく読みました。
柳生連也齋という剣豪のファンでした。
これは、五味の小説で読んだのか定かでありませんが……。
鹿児島の自顕流という剣法が、印象に残ってます。
抜刀術。
普通、刀は、刃が上を向くようにして腰に差します。
でも、自顕流は逆。
刃を下にして構えます。
で、抜くと同時に、相手の股下から切り上げるんですね。
「抜即斬」と称され、すさまじいスピードだったそうです。
斬られた相手は……。
股から胸下までが、真っ二つになってたとか。
自顕流には、防御技が一切ありません。
相手の太刀を避けるという考えが、最初から無いんですね。
怖ろしい相手ですよ。
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3. ハーレクイン- 2012/10/19 00:46
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>いったん抜いてしまったら、逆にどうしようもないんじゃないの
せやから、そない言うてるやんけ。
>刀を抜かされては勝ち目はないなあ
自顕流(または示現流)は……
言わずと知れた薩摩藩島津家の御家流(御留流)剣法。
で、示現流に「切り上げ」なんて太刀筋あったっけ。
「切り下ろし」一本だと思ってた。
刀を*八双に構え、相手に走り寄り、すれ違いざま切り下ろす。
*刀を右脇から肩の上に立てた構え。
野球のバッティングフォームに似ている。
切腹時の介錯人の構え。
示現流を最もよく表現する言葉に『二の太刀要らず』がありますね。振り下ろす刀のスピードと重さ。これが示現流の全て、と言えるかもしれません。
とにかく1mmでも、1㍉秒でも早く相手に刀を当てれば勝ち、という発想ですね。
で「切り下ろし」1本ですから、その切り口は、真向唐竹割、ないし袈裟懸けです。このあたり、Mikiko説とは全く逆だなあ。
相手としては、振り下ろされてきた刀を受け止めればよさそうですが、それは甘い。
振り下ろす勢いで、相手の受け止めた刀をへし折って仕留める、という怖ろしい太刀筋です。『一の太刀疑わず』という言葉もあるそうです。
とにかく、初太刀がすべて。
近藤勇、もちろん新撰組の局長ですが、隊員に次のように言っていたそうです。
『薩摩のイモ侍(鹿児島の人、御免)とやる時には、初太刀は必ず外せ、受け止めてはならぬ』。
ちなみに……示現流には防御技もきちんとあるそうです。
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4. Mikiko- 2012/10/19 08:02
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そう言ってたの。
そりゃ、失礼いたしました。
自顕流と示現流は違います。
自顕流は、正式には薬丸自顕流と云います。
薩摩藩士だった薬丸兼陳が、示現流を修めた後、家伝の野太刀の技を元に編み出した剣法。
野太刀自顕流とも呼ばれます。
技の数は、示現流に比べ、圧倒的に少ないです。
その少ない技を、徹底的に鍛え上げます。
なので、ひとつひとつの技は、圧倒的なまでに強烈。
「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」。
言葉による教えは、これだけだそうです。
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5. ハーレクイン- 2012/10/19 09:48
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へええー。
同じ流派を、異なる表記で書いてるだけだと思ってた。
これは失礼しました。
でも、似てるんだよなあ。
示現流から派生したのが自顕流、でいいのかなあ。
それなら似てて当然か。