2012.3.8(木)
川面を渡って来る風が心地よく肌にそよぎ、羅紗姫は微かな船の揺らぎに身を任せていた。
男であれば余りに麗しい目を細めながら、伊織はまだ朝靄に煙る対岸の様子を窺っている。
江戸を発って以来十二日目にして、伊織たち一行は島田の宿を出て、大井川の渡し船に乗り込んでいた。
瀬渡し人足に頼み込んで、蓮台など使わず特別に船を出してもらったのである。
「船に乗るのは初めてでございますか?」
「ええ、初めて。気持ちの良いものでございますね・・。」
伊織の問いかけに笑顔で答えた羅紗姫であったが、ともすれば伏し目がちになるお美代が気になって声をかける。
「まあほら、向こうでは何やら網を打っていますね。お美代さんも魚を獲ったことがありますか?」
「ううん、あたしはやったことないけど、小さい頃お父つぁんの釣りにはよく付いて行ったよ。」
お美代はふと我に返った様に、笑顔を作って羅紗姫に答えた。
「これお美代。お姫様にはもう少し言葉を・・・。」
たしなめる伊織を制するようにして、羅紗姫はお美代に優しい笑みを返しながら言った。
「いえ、いいのです。皆、私の為にこのような事になって・・・。
それに親兄弟も無く育った私には、まるでお姉さまができたようで嬉しく、心強いのです・・・。」
「お姫様・・・。」
お美代は姫の素朴な心に触れたようで、しばしまだあどけなさの残るその顔を見つめると急にやんちゃな声を張り上げた。
「あはは、大丈夫よう、あたしが一緒に付いてんだから・・。何でもあたしに聞いてちょうだいね、お姫様。」
「こ、これ・・、まったく・・・。」
伊織も思わず苦笑いでお美代の顔を見た。
島田を発つ前の晩に、伊織は羅紗姫とお蝶、お美代を引き合わせた。
白蝋を尋常ならぬ相手と感じ、素性も知れてしまった今、味方が一つになって事に当たらねば、丹波までの道のりを乗り切る事は容易ではないと判断したからである。
羅紗姫は居住まいを正し、愛らしい顔に悲しみを湛えて言った。
「私の為に、伊織様ばかりかあなた方までこのような騒動に巻き込んでしまって、私何と申し上げてよいかも分かりません・・・。
いよいよの時には、私の身を差し出すことで皆を救えるのであれば・・・。」
俯いた羅紗姫の風情が、急に途方に暮れる幼子の様に哀れに見えた。
慌てて伊織が何か言おうとする前に、お蝶がきっぱりとした口調で言った。
「お姫様、あたしの様な者がこんな口をきいて申し訳ありませんが、貴女様ご自身がそんな気持ちでどうします。
あたしは伊織様の為に、たとえわが身を投げ打ってもと付いて参りました。
まだお若い姫様には酷な事かもしれませんが、たとえ最後の一人になっても、一人でお城の門をくぐる位の覚悟をお持ちください。」
伊織はしばしお蝶の横顔を見つめた後、まだ16の姫に優しく言葉を継いだ。
「姫、お蝶の言う通りでございます・・。
ただお役目というばかりではなく、人にはこの世で渡るべき橋があるように私には感じられるのです。
そしてもう私達は、その橋に足を踏み入れているのではないかと・・。
丹波へ向かう道は、もう姫一人の道ではございません、私どもの道でもあるのです。
姫も私どもも橋を渡り切る運命にあれば、一緒に向こう岸に立っていることでしょう。
ですから、一緒に前を向いて進みましょう・・・。」
姫は胸を詰まらせて言葉も出ぬまま、伊織たち三人の顔をじっと見つめたのだった。
“この間まで長屋でのんびり暮らしてたあたしが、命をかけて丹波までの道を辿ってるなんて・・・。”
お美代は川景色を眺めながら、そんな自分が信じられなかった。
「先に渡ったお蝶さんは大丈夫でしょうか・・?」
羅紗姫は次第に近づいてくる対岸を見つめながら、心配そうに口を開いた。
「なに、ああ見えてお蝶は並大抵の技量ではございません。きっと今頃は、船着き場廻りを調べ付いておりますよ。」
「そうよ、あたしを助けに来た時なんか凄かったんだから。あたし、びっくりしちゃった。
長屋で取っ組み合いの喧嘩しなくてよかったわ。」
「あははは、確かにそうであったな。」
伊織は不安を吹き飛ばすように笑うと、さらに続ける。
「川を渡りましたら、夕刻までには掛川に到着いたします。掛川には伯父左内の懇意にする、野口様のお屋敷がございます。
少しでも旅の安全を期するため、そこに身を寄せ、手足を伸ばさせていただきましょう。」
羅紗姫は無垢な笑みを浮かべながら、頼もしげに伊織の顔を見つめた。
遠江の国掛川にある野口斉昭の屋敷。
まだ若くして掛川町奉行所勘定方を務める斉昭は、傍らの令室に声をかけた。
「姫の初めての長旅とは言え、遅いのう伊織たち一行は・・・。
妙、もうお迎えの準備は出来ておろうの?」
「はい、旦那様。もう滞りなく済んでおります。」
まだ歳も25と若く、掛川で才色兼備と噂も高い斉昭の妻妙は、その品のある美貌を綻ばせながら答えた。
「一日二日の事ではあるが、無き父の恩人、左内様へ御恩を返すよい機会じゃ。大儀だが、よろしく頼むぞ・・。」
「はい、よく心得ております。」
妙は少し目尻の上がった利発そうな顔立ちを和らげて斉昭の顔を見上げた。
細身の体を上げようとして、思いついた様に膝を畳に戻すと妙は口を開く。
「それから旦那様、尾張より珍しい生地を仕立てる商人が参っておるのでございますが、お客様ご到着前に用事を済まさせて頂いてよろしゅうございますか・・?」
妙はまだ若妻らしく、嬉しそうに瞳を輝かせながら言った。
「おう、そう申しておったの。よいよい、いつも健気なお前の楽しみじゃ。気に入ったようにするがよいぞ。」
斉昭は良妻の喜ぶ顔見たさに、優しい笑顔で言った。
「申し訳ありません。お待たせいたしました。」
妙は商人を待たせていた離れの躙り口から声をかけた。
「いえいえ、私の方こそお忙しい折に申し訳ございません・・。」
商人は三十過ぎほどな歳の頃であろうか、布地を扱うだけあって気品のある、しかし何故かその陰に妖艶な色気を湛えた女であった。
傍には使用人見習いだという双子の少女を従えている。
妙は先ほど見立てた生地にうっとりと目を落としながら言った。
「普段は近くの子供達の手習いに、書や琴などを教えておりますが、これはそんな私でも似合いますでしょうか・・・?」
それを聞いた商人の目が輝きを増した。
渋い装いの身を乗り出す様にして、その生地を手に取りながら口を開く。
「きっとお美しい御貞室様には、とてもよくお似合いになると思われます・・。」
「まあ、そう思いますか・・? ・・・それでは・・。」
妙の言葉に、商人は間髪入れず言葉を継いだ。
「賢妻と誉も高いお方様には、さぞお似合いになることでしょう。
それでは、細かいお身体の寸法を取らせて頂きたく存じますが、恐れながら襦袢を残し、御着物をお取り願えますか・・・?」
「は、はい・・。」
妙は帯を解き着物を脱ぐと、白い襦袢姿になった。
その姿は才色兼備の噂に違わず、しなやかな細身で腰高な身体つきである。
しかし寸胴でふくよかな方が着物が似合うという考えから、つい妙はいつもの不安を口にしてしまう。
「私に似合うものができますでしょうか・・・?」
「ご心配なく。私はお客様の身体に合わせるため、いつもこの両の手でお身体を測り、膨らみを感じさせていただいております。
そしてお客様の肌の有りようさえ、生涯気に入って頂く物を作る為に肝要なことなのです。恐れ入りますが、お身体に触れさせていただきます。」
「え、ええ、・・・ではどうぞ・・・。」
妙は多少訝しく感じながらも、よい着物を作る為に商人の言葉を信じた。
しかし悲しいかな、時の運はこの賢妻の思いを裏切った。
この商人は、東海道沿いに左内の所縁の者を調べたうえ、当野口家に目星を付け網を張っていたのである。
品のある仕立て職人の女主人は、春秋花を引き連れた白蝋の頭領、美夜叉本人に違いなかった。
「それでは先ず、肩からお背中まで・・。」
美夜叉は襦袢姿で立った妙の後ろに廻ると、しなやかな両手の指を細い肩先に添わせていく。うなじから肩にかけて、輪郭をなぞる様に美夜叉の指が何度も滑り下りる。
やがて妙の身体から徐々に力が抜けていくのを感じると、姿勢の良い背中の微妙な起伏、そして腋の下から細い胴のくびれ、更にはその下に再び膨らみを増す腰の辺りまで、妙の身体に両手の平を馴染ませていった。
妙の耳がほんのり赤らむのを見て、美夜叉は優しく声をかける。
「ではお方様、前の方を確かめさせていただきます・・。」
「え、ええ・・。」
美夜叉は妙の前に廻ると、おもむろに襦袢の紐を解き放たぬまま緩めた。
「あ・・。」
妙が小さく声を上げたと同時に、緩んだ襦袢の間から、片手にちょうど馴染むほどの上品な乳房の膨らみと、その上の桃色の乳首まで垣間見えた。
「まあ、お綺麗ですこと・・・。」
合わせの狭間から滑り込んだ美夜叉の両手が、乳房の両脇の肌にそっと添えられる。
「あ、あの、この様なことまで・・・ん・・。」
さすがに口を開きかけた時、美夜叉の両手が微かな動きと共に柔肌を擦り、妙は目を閉じて息を詰めた。
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2012/03/08 17:26
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羅紗姫御一行様。今夜の宿は遠江は掛川宿か。
掛川といいますと、東海道五十三次の26番目の宿場。京の都までちょうど半分来たわけだ。羅紗姫様には何事もなく。
今のところはな。
しかし手ぐすね引いて待ち受ける白蝋衆一味。
久しぶりだなあ、春秋花ちゃん。相変わらず、可愛い顔して悪さをしておるではないか。
とりあえずのターゲットは、勘定方野口斉昭御令室、妙の方様。育ちがおよろしいだけに世間知らず、ああっという間に誑し込まれてしまうんだろうな。
まして今回は春秋花ちゃんに加え、何と頭領美夜叉直々のお出まし。気合入ってるなあチーム白蝋。掛川で一気にけりをつけるつもりかな。
それにしても、佐内伯父もそうだったがチーム羅紗姫。どうもガードが甘いぞ。野口の殿サンもなんかボーっとしておるしなあ。名前は「斉昭」と、えらい御大層なのだが。
頼むぜ、野口の殿サン。
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2. Mikiko- 2012/03/08 20:01
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> 人にはこの世で渡るべき橋がある
> もう私達は、その橋に足を踏み入れているのではないか
含蓄のある言葉ですね。
この伝でいくと……。
わたしも八十郎さんもハーレクインさんも、小説を書くという橋を、一緒に渡ってるってことでしょうね。
読者のみなさんも、わたしたち一行に加わりませんか?
小説を書いたことなんかなくても、ぜんぜん平気です。
プロになろうってわけじゃありませんから。
わたしたち3人も、自分が小説を書くなんて思いもしてなかったんですよ。
新しい自分が見つかるかも知れません。
きっと、楽しい道中になりますよ。
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3. ハーレクイン- 2012/03/08 20:54
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この「プロじゃないんだから」って開き直り、ホントに心安らぎますねえ。
書きたいことを書き倒して楽しめばよし。「金返せ!」とねじ込まれる気遣いもなし。
♪ハハのんきだね~、てとこですね。