2017.11.14(火)
ようやく目が慣れてきた。
志摩子と手を繋いだまま、道代は足元を見た。
踏み込んだ足元は三和土(たたき)ですらなく、戸外と変わらぬ剥き出しの土のようである。小石でも埋もれているのか、そこここに地面の盛り上がりがあるように見えた。
道代は軽く目を上げた。
正面奥に伸びる板張りの廊下。
上がりの框(かまち)は……無い。
廊下のこちら端は、板の断端が剥き出しに。
そして廊下の下、土間の地面との間には、床下の空間が黒々と口を開いていた。
それらの様は、この苫屋が大きく口を開き、歯を剥き出しているように道代には思えた。
志摩子が道代の耳に口を寄せ、囁いた。
「なんや……取って喰われそやねえ」
(姐さんも……おんなじ思いなんやなあ)
道代は、志摩子の手を握るわが手に少し力を込めた。
そないですなあ、の同意なのか、そないなこと……おへん、との否定、志摩子への励ましなのか、道代自身にもわからない振る舞いであったろうか。
道代は繋いだ志摩子の手を離し、風呂敷包みを廊下の端に置く。志摩子の前に回った。
「姐さん、道行き、お脱ぎやして……」
「ああ、せやなあ」
道代は志摩子の衿元に両手を伸ばし、止め紐を手早く解いた。道行きの前が開く。道代は素早く志摩子の背後に回った。
志摩子は両腕を軽く開き、伸ばした腕を下に向ける。
道代は甲斐甲斐しく道行きを脱がせ、手早く畳む。取り敢えず、の袖畳みだった。右腕に掛けて持つ。さらに、取り上げた風呂敷包を抱え込んだ。
「行くえ(行きますよ)、道」
ひと声掛けて返事は待たず、志摩子は一歩、二歩、廊下の端に歩み寄る。
立ち止まる。
左足の第一指と第二指の力を抜き、指間を開く。
履いたおこぼ(木靴)の鼻緒を抜く。
体重を右脚に掛け、志摩子は左足を上げようとした。
その足を包む白足袋は、土間の薄闇を切り裂くように、道代の目を鮮烈に射た。
その白足袋の動きを目で追った道代は、足袋の向かう先、志摩子の左足が踏みしめようとする廊下の端を目に留めた。
元々からなのか、朽ちたか、幾度も踏まれたためか、廊下板の端はところどころ欠けていた。
「姐さん、お気を付けやして」
すかさず道代が声を掛けたときには、志摩子の左足は廊下の端を踏んでいた。
志摩子は、片足を上げた姿勢のまま、軽く道代を見返った。
「なんえ(なんですか)、道」
「え、いえ、なんや廊下の端、ボロボロみたいですよってに……」
志摩子は目を落とし、自分の左足を見る。軽く、確かめるようにその足に体重を掛けた。二度、三度……。
「大丈夫みたいやなあ」
「そない……どすか」
志摩子の左足の下の廊下板は、軋み音一つ立てなかった。
それでも慎重に、志摩子は続けておこぼから抜いた右足を引き上げる。両足で廊下の端に立った志摩子は、軽く道代を振り返った。その様は浮世絵師、菱川師宣の描いた『見返り美人図』を彷彿とさせるものだったが、そのような絵も絵師も、二人とも知らぬ事だったろう。
「大丈夫や、道、あんたも上がりぃ」
「あ、へえ」
答えて道代は左右を見回した。下駄箱を探したのだが、見当たらない。それどころか、二畳ほどの広さの土間には、飾りつけなどはもちろん、一切の物品は置かれていなかった。
では仕方ない。
道代は下駄を脱ぎ捨てて廊下の端、志摩子の隣に上がった。向き直り、屈んで、手早く二つの履き物の向きを変え、揃えて土間に置いた。立ち上がる。
「お待たせしました」
その時、廊下の奥から、二人に声が掛かった。
「こっちでっせ」
先程、入口に顔を出した男であろうが、その声を聴くのは二人には初めてだった。
廊下の幅は狭い。半間もあるまい。
案内するように、道代が先に立った。
男は既に背を向けている。
廊下は入口の土間と同様に薄暗かった。廊下の左側は板壁、右側は板戸。外の光は全く入っていないようであるが、仄かには明るい。だが、人工の照明があるのかないのか、あるならば何処に……。道代にはわからなかった。歩む足の下、踏みしめる廊下は、先ほど確かめたときと同様、軋む気配すらない。廊下板はよほど磨き込まれているのか、道代の裸足の足にも驚くほど滑らかだった。
(これは……)
(これやと、姐さんのおみ足)
(足袋やと滑らはらへんやろか)
気に掛ける道代だったが、背後の志摩子の足音が乱れる気配は全く無かった。
志摩子が小さく声を掛けてきた。
「なあ、道」
道代は振り向かず、先行する男の背を睨むように見詰めたまま返事した。
「へえ、姐さん」
「ここ……外から見たほどボロやないんかもしれんなあ」
道代は一瞬言葉に詰まったが、すぐに返す。
「そない、ですなあ」
道代が言葉に詰まったのは、再び志摩子が同じことを考えていたことを知らされたからだった。心を占めていた不安な思いがその一瞬掻き消え、痺れる様な喜びが道代を満たした。
(姐さん……)
(うち……どこまいでも〔どこまでも〕姐さんを……)
お供します、お守りします、と改めて誓う道代だった。
先行する男が立ち止まった。一枚の引き戸の前だった。
「ここですわ」
振り向いて二人を確認した男は引き戸に向き直り、室内に声を掛けた。
「旦さん」
返事を待たず男は引き戸を開け、道代に向き直ってから一歩後ろに下がる。
道代は体を開き、志摩子に道を開ける。
志摩子が先頭で室内に踏み込んだ。
とたんに志摩子は声を上げた。
「まああー」
コメント一覧
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1. ハーレクイン- 2017/11/14 13:35
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いよいよ踏み込む踊熊庵(ようゆうあん)
鬼が出るか蛇が出るか、というところです。
無論出るのは相馬の旦さん、相馬禮次郎なんですが、さすがに舞妓を身請けしようかというお大尽、もったいぶっております。出迎えになんぞ出ず、奥座敷にふんぞり返って(たぶん)姿を見せません。実際の登場は次回、ということになります。
代わりに出迎えに出たのは、何やら不愛想そうなこれもおっさん。いったい何者、も次回以降になります。
>上がりの框(かまち)
管理人さんから「いったい何やねん、聞いたことも無いわ」とクレームが付きました。
広辞苑によりますと……、
【上がり框】家のあがり口のかまち。
おう、そうかい、で框(かまち)を引きます。
【框】床(ゆか)などの端にわたす化粧横木。
どうもピンと来ません。
本文はさらに……、
>廊下の下、土間の地面との間には、床下の空間が黒々と口を開いて……。
つまり、この「床下の空間」を隠すための、いわば“蓋(ふた)”のようなものですね、上がり框。
図があるとわかりやすいんですが……。
で、いよいよ踏み込む奥座敷
「まああー」と声を上げる小まめの志摩子。
いったい……。
次回を乞う!ご期待。
〔いよいよ踏み込むHQ〕
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2. Mikiko- 2017/11/14 19:47
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上がり框
言葉は知ってましたよ。
場所を間違えてただけです。
玄関で、靴を脱いで上がった床面を言うのかと思ってました。
↓床材の端部を隠す横木を云うんですね。
https://ameblo.jp/favoritehome/entry-12157114611.html
一般住宅では、床下の空間が出来るほどの段差は無いと思います。
旅館や料亭などでは、床が高いところがありますね。
靴脱ぎの簀の子が置いてあったりします。
『踊熊庵』の床下からは、ぜひ貞子を出してほしいものです。
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3. ハーレクイン- 2017/11/14 21:20
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>言葉は知ってました
それは失礼しました。
しかし、あまり使わなくなった言葉なんでしょうか、框。
わたしも漢字はよう書きませんし、読むのも怪しいかな。
ものを書くというのは、ホント勉強になります。
ただまあ、お勉強のために書いてるのではもちろんありませんが……とはいえ、何のために書いてるのかと問われると、何のためですかね。
それはともかく、わたしの実家の家は、玄関の床面と家屋の床面は40~50センチの段差があります。94歳になるわたしの母親は、もう、この段差を踏み越えることが出来ず、簀の子、じゃなくて踏台を置いています。
現在のわたしの住まいは、段差30センチくらいです。
昔の民家は、この位の段差はあったんじゃないでしょうか。
踊熊庵の床下
貞子はともかく、利用法は考慮中です。
〔段差評論家HQ〕
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4. Mikiko- 2017/11/15 07:26
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昔の家の縁の下
なんで高かったのでしょう?
最たるものは、神社仏閣です。
人が住めるほどの高さがあるでしょう。
湿気対策なんですかね?
そう云えば、最近の住宅の基礎工事を見ると……。
床一面をコンクリートで覆ってます。
昔は、縁以外の部分は、土が剥き出しだったですよね。
こういう工法も、湿気対策なんでしょうか?
このような湿気対策によって、床を低く出来るようになったということですかね。
住宅のバリアフリー化という点では、低床住宅が有利であることは確かです。
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5. ハーレクイン- 2017/11/15 11:12
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何故に高い床下
やはり湿気対策でしょう。
正倉院なんか高床ですよね。あと、高床式倉庫。
床一面をコンクリで覆うのは、白アリ対策にもなります。
無論、いずれも完璧、とはいきませんが。
バリアフリー化は仰せの通り。
わたしの母親などは痛感してるでしょう。
〔どっこいしょHQ〕
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6. Mikiko- 2017/11/15 19:39
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湿気と云えば……
新潟の冬。
かつては、窓の結露が宿命でした。
でも最近では、加湿器をかけてます。
理由はもちろん、暖房機が、石油ストーブからエアコンに変わったからです。
石油ストーブのように化石燃料を燃やすと、水素(H)が発生します。
それが空気中の酸素(O)と結びついて、水(H2O)が生じるわけです。
エアコンではそれがないので、空気が乾くばかりです。
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7. ハーレクイン- 2017/11/15 21:33
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暖房
わたしは石油ストーブもエアコンも使いません。
都市ガスが燃料のガスストーブです。
これは乾燥の心配はありません。
加湿器は以前持ってたんだけど見当たらない、捨ててしまったようです。
で『アイリス』です。
この「踊熊庵の場」が(いつになるかわかりませんが)終わりますと、いよいよクライマックス。懐かしの『リュック』に戻ることになります(何それ? だろうなあ)。
で、この機会にということで、今日一日かけて、ここまでの分を読み返しました。無論、丹念に読んだわけじゃなく飛び飛びですが……。
そうしますと出るわ出るわ……(それほどでも)。
なにがって、矛盾点です。
一例をあげますと、現在、道代と志摩子は祇園を発って市電、国鉄を乗り継いで、嵯峨野竹林の道をたどってきたわけですが、実はこの日「京の町がまた雪になっ(#161)」てたんですね。
ところが……「今日はさほど肌寒い気候ではなかった。風はなく、冬の陽射しは弱いとはいえ、豊かに降り注いでいる。穏やかな京の冬日であった(#164)」となってます。これは京都市電、祇園停留所での光景ですから、ほんの1時間も経たない(たぶん)間に雪が止んで道の雪も溶け、陽が射してきた……ということになるわけで、さて……ということなんですね。
まあ、気付かれるお方はいらっしゃらないでしょうけど……。 〔何も考えていないHQ〕
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8. Mikiko- 2017/11/16 07:18
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冬だったということすら……
忘れてました。
竹は常緑なので、季節感がありません。
確かに、京都市街が雪なら……。
嵯峨野では、積もっていてもおかしくないですよね。
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9. ハーレクイン- 2017/11/16 08:51
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雪の嵯峨野
結構広いんですよね、嵯峨野。
よくはお分かりにならないかもしれませんが、山陰本線の北側、大覚寺や、祇王寺、落柿舎などのあるあたりも嵯峨野です。市街が雪だと、ここらはかなり積もるでしょうか(たぶん)。
ただ、JRの南側になります竹林の道は、どうでしょう。竹叢に遮られて、さほど積もらないと思われます。
と、わかった風なことを言ってますが、無論わたしは知りません、雪の京都。
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10. Mikiko- 2017/11/16 19:55
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嵯峨野観光
むしろ、冬が狙い目なのでは?
観光客が少なそうです。
↓こちらのサイトさんには、「雪化粧した冬景色が最も美しい」と書いてありました。
http://kyotonakaboushinji.info/?p=73
京都市街に降った雪は、すぐに消えてしまうそうですが……。
嵯峨野では、数日残るとか。
降った翌日に出かけてみるのはいかが?
歩かなくても、トロッコ列車で楽しめますよ。
帰りは、もちろん湯豆腐でしょう。
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11. ハーレクイン- 2017/11/16 21:14
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ご紹介のサイトさん……
によりますと「(嵯峨野は)うっすらと雪化粧した冬景色が最も美しい」そうです。
「美しい」に異論はありませんが「最も」は、人それぞれでは。
無論、わたしは雪景色の経験はありませんので、何とも言えませんが。
湯豆腐
わたしが最後に嵯峨野・嵐山に行ったときは、ウナギを食べました。
〔♪京都嵯峨野に吹く風は~HQ〕
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12. 手羽崎 鶏造- 2017/11/16 23:56
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上がり框(かまち)。
松田聖子の本名は、たしか
かまちさんだったと思います。
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13. Mikiko- 2017/11/17 07:31
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嵐山で……
普通、ウナギを食べますかね。
ま、お店があると云うことは、食べる人がいるからなのでしょうが。
松田聖子は、ドラマの役名だったそうです。
本名は、蒲池法子(かまちのりこ)。
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14. ハーレクイン- 2017/11/17 12:20
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ウナギ山
そこにウナギ屋があったから Because it’s there、です。
框(かまち)一件
手羽崎鶏造さん、よくご存じで。
「かまち」から松田聖子を思い出すのは、かなりのファンと見ました。
Mikikoさん、どういうわけか、わたしはあまり聞いたことないんですよね、松田聖子。あれだけ売れたのに、ですがなんか合わないんだよなあ。
〔♪白いスイートピー あれ?赤だっけHQ〕
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15. Mikiko- 2017/11/17 19:44
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音楽関係の評論家だったと思いますが……
松田聖子は、「イ」の発音が非常に上手いと書いてました。
特に『赤いスイートピー』のサビには、「イ」が2つ入ってて出色なんだとか。
面白い観点があるものだと感心しました。
「イ」が上手いのは、ショッカーだけかと思ってました。
youtubeで聞いてみられたし。
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16. ハーレクイン- 2017/11/17 21:25
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>「イ」が2つ
じゃあ“白い”でもいいわけだ。
『ふたりのイーダ』(原作;松谷みよ子)という邦画があります。これは「イ」2つなんでしょうか。
松田聖子
またの名をかまちのりこ、は、さて置き。
ショッカーも無論さて置き。
前々々々コメに書きました「アイリス矛盾点」ですが、実は一つ、致命的と云いますか、取り返しがつかないと云いますか、『アイリス』の物語世界を根底から覆す(それほどでも)矛盾点。
というよりミス、ですね。これは全くわたしの厚顔無恥、じゃなくて京都無知のしからしむる処。
実はこれ、今回の読み返しで発見したのではなく、かなり前から気付いていたんです。
で、知っていながら知らない素振り……じゃなく、とてもわたしの口からは言えません、ということで、とぼけていたんです、確信犯です。
で、この機会に白状しようかなあ、と思ったのです(いったいなんやねん)。
いやいや、わたしからはやはり言えません(ええかげんにせえよ)。
〔どうしたもんじゃろのうHQ〕
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17. Mikiko- 2017/11/18 08:08
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大丈夫
誰も気がついてません。
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18. ハーレクイン- 2017/11/18 10:27
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>誰も気が付いていない
誰も“読んでいない”でなきゃいいんですが……。
まあいいや、白状しちゃいましょう。
問題は「花よ志」の立地場所。
始めは「祇園」という設定だったのですが、わたしの頭の中のイメージは「先斗町(ぽんとちょう)」だったんです。
動かぬ証拠は「花よ志殺人事件」の捜査会議場面で、「花よ志」の構造図を掲示しました。ここで……、
「花よ志」の裏を流れる鴨川が、図の左から右へ流れています。つまり、「花よ志」は鴨川の右岸にあるということになります。
ところが! 祇園は鴨川の左岸に広がる花街です。鴨川右岸の花街は先斗町、これだけなんですね。
つまり「花よ志」は、いつの間にやら祇園から先斗町に引っ越していた、ということに……。
あれ?
ここまで書いて旗(わざとです)と考えこみました。
この引っ越し一件、以前にも書いたような気がします。
〔♪京都先斗町に降る雪も~HQ〕
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19. Mikiko- 2017/11/18 11:49
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そしたら……
↓その「構造図」が載った回をご紹介しましょう。
https://mikikosroom.com/archives/2771167.html
字は下手クソですが、川の流れる方向なんて描いてありませんよ。
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20. ハーレクイン- 2017/11/18 14:56
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ああ、いやいや
図の中に書き込んだのではありません。作中人物のセリフです。
「花よ志」裏庭殺人事件を捜査する京都中京署六地蔵班の捜査会議の席上です。
この図を示しながら(字がヘタは余計じゃ)醍醐保巡査が説明しています。曰く……、
「こんなとこでんな。鴨川は図の左手が上流です……」(『アイリス』#86)
ということは「花よ志」は鴨川の右岸に立地、つまり祇園ではなく先斗町ということになっちゃうんですね。
〔♪雪に変わりはないじゃなし~HQ〕
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21. Mikiko- 2017/11/18 18:22
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そしたら……
「右手が上流」か「左手が下流」に直せばいいんでないの?
そのくらい、お安い御用ですよ。
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22. ハーレクイン- 2017/11/18 20:35
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お申し出は……
感謝感激雨あられ(誰のギャグだったかなあ)なんですが、その後「『花よ志』の立地は先斗町」というイメージで書き進めて来ましたから、今さら変更もなりません。
訂正を掛けるなら「祇園」の方でしょうけど、これは相当遡って(あやめが京都に戻って来た頃から)修正していかななりませんので……。
まあ“誰も気づいていない(読んでいない)”ということで、このままとぼけちゃいたいと思います。
〔確信犯HQ〕