2017.7.20(木)
明け方の風に笹の葉が音を立てる。
寝袋にくるまったまま、蔓は傍らの桔梗に顔を向けた。
大事の前に幸い眠りについたのか、向こうを向いて静かに寝息を立てているように見える。
蔓は自分も目を閉じ、桔梗と会う前のことを思い出していた。
「どうやらこの一件は、御法度破りの抜け荷と丹波の若のかどわかしが絡んでいるようなんです」
蔓が語り掛けた相手は、ようやくその重い口を開く。
「うん……。で、根来くずれの始末はともかく、若の方はお前どうしようと……?」
蔓は一重瞼の非情な眼差しを微かにさ迷わせた。
「ええ……、丹波と丹後の長い付き合いもあるでしょうし、出来れば救出の手助けを……」
「ほう……」
影の反応に蔓は顔を上げた。
「しばらく様子を見ましたが、丹波の二刀流、若侍とはいえなかなか天晴な武士(もののふ)。若と抜け荷の一件に因縁がある以上、一緒にことに当たるのも無駄ではないと……。またそうするに値する無垢な心を持っております」
それを聞くと、蔓の前で前屈みの影がゆっくりと伸び上がる。
「ふふ……。お前、心が動いたな……?」
「え……?」
蔓は不安げな表情を漂わせた。
「心が動けば“くのいち”は弱くなる。そんなことは、お前ほど役目を積めば分かっていることだろう……」
「え、ええ……」
視線を落とすと蔓は小さく頷いた。
「心が動いて命を落としたくのいちを何人も見て来た。と言って、調べを終えたらそのまま里に帰れと言っても……、もうお前は言うことを聞くまい」
蔓はその青白い顔を硬くして押し黙ったままである。
そんな蔓に年老いた声がかかる。
「頭のよさや薬使いなど、お前は隠密に秀でた忍びではある。だが組打ちや争いはもっと優れている者が大勢いるではないか。それでも若侍の手助けをすると……?」
黙ったまま蔓の首が縦に動くと、しばらく沈黙が流れた。
「お前も三十を越えたのか……。幼い頃からお前は忍びの修行にすべてを捧げて来た。誰でも一度は来る、失ったものを取り返したいと思う時が……。お前は、その関所を越えられるかな……?」
影はゆっくりと立ち上がって蔓に背を向けた。
「私にも一族の意向を変えることまでは出来ない。だが……だがもしこの一件で窮地に陥った時はここに寄りなさい。何か出来ることがあるかもしれない」
「あ、有難うございます……」
蔓はそう呟いて、去ってゆく影の背中に頭を下げたのである。
再び夜明けの風に笹の葉が騒めいた時、蔓は静かに寝袋から身を起こした。
寝入っている桔梗の様子を窺うと、切りそろえた竹や麻縄を包んだ風呂敷を掴む。
もう若の救出の時まで半日余りである。
今のうちにお竜一家の裏の竹やぶで、準備した竹を組んで足継ぎを作らねばならない。
忍び足で歩き出しながら蔓は後ろを振り返った。
いつぞやの夜明けに、拗ねて背中を見せた桔梗を思い出す。
蔓の顔にうっすらと笑みが浮かんだ。
それはまさに、今まで蔓が失くしてきた心そのものだったのである。
障子紙が薄っすらと白み始めた時、伊織は気怠い身体を布団から起こした。
昨夜はうとうととまどろんだかと思うと、風が霧を払うようにその眠気は消し飛んでいった。
寝巻の前を整えようとした時、伊織はその身体に小さな震えを走らせた。
己が乳房の膨らみに点々と赤いあざを見つけたからである。
一度火をつけられた伊織の身体は、幾度かお竜や咲と極みを共にしてしまった。
己が断末魔の声が頭の中で響いた時、耳元で獣のようなお竜のうなり声を聞いた。
浅ましく抱き合って息を弾ませながら、露を滴らせたお竜のものが太腿の肌に吸い付いた。
もう何本かも分からないほど抉り込んだお竜の指を締め付けて、伊織は悲しいほどに腰を振らされたのである。
悔しいことに、青い竜は伊織を目くるめく快楽の淵に落としながら、自分も身をくねらせて幾度も極みを共にしたのだ。
燃えるようなひと時が過ぎて咲が帰った後も、お竜はなかなか伊織の身体を離そうとはしなかった。
ぼろ布のように互いの裸体を絡ませたまま、時折思い出したように唇を重ねてくる。
ざわざわと残り火が燻ぶる身体を撫でられ、ねっとりと舌を絡めて唾液を分け合う。
幾度か薄目を開けて様子を窺ったが、その度にお竜の笑みが伊織の顔を見つめていた。
「きれいだよ……」
お竜はそう囁くと、また気の遠くなるような口吸いを交わしてくるのだ。
身体の喜びだけで言うなら、この上ない情交である。
大概の女ならこのお竜とのまぐわいで骨向きになるに違いなかった。
やがてお竜の小さな寝息が聞こえ始めた時、伊織は静かに身を起こして自分の支度部屋に戻った。
乳房の膨らみに残った赤いあざは、そんなお竜との睦みごとの証しだった。
起き上がった伊織は、部屋の隅に置かれた小さな鏡台の前に座る。
首を振って乱れた黒髪を払うと、片手できつく頭上に掴み上げた。
櫛でその髪を束ねながら、唇を噛んだ伊織はいよいよその日の準備を始めたのである。
外を窺った伊織は、慌てて戸襖の手前に身を潜めた。
回廊の先で、離れの障子が大きく開いたからである。
一人の色白で背の高い女が姿を現わした。
肩から前に癖のある黒髪を垂らした風情は、まるで天女のような美しさを漂わせている。
長い手足で大きく伸びをすると、その女は胸の前に両手を組み合わせた。
“あ……!!”
障子の隙間から伊織はその目を見開いた。
ゆっくりと息を吸う女の肌が赤黒く変化し、伸びやかな肢体が隆々とたくましく変化していく。
“これが根来……?”
我が目を疑いながら見つめるなか、大女の後ろからもう一人別の女が姿を現わした。
浅黒い顔に白い歯が輝き、思いがけず鋭いその眼光が辺りを窺う。
思わず視線を部屋内に戻すと、伊織は障子を背に身を硬くした。
ついに間近に見た根来は、本能的に手強い相手と感じたからである。
「もう荷捌きも今日で終わり。明日からは荷物の護衛で京へ行くんだろ?」
「うふふ随分ご機嫌じゃないか蓬莱。でも甲賀や伊賀が、荷を目当てに襲ってくるかもしれないよ?」
「あはは、少しは騒動もなきゃあ身体が鈍ってしようがないよ」
もうお竜一家に取り入っているにもかかわらず、伊織は息を潜めて廊下の声が通り過ぎるのを待った。
やっとその話し声が遠ざかった時、ふと視線を上げた伊織の身体が凍り付いた。
続きの間との仕切り戸が音もなく開いていた。
そしてそこには、じっと自分を見つめているお通の姿があった。
伊織はやっと平静を保った。
“こいつか……、鷹というのは”
あらかじめお蝶に聞いていなければ、取り乱して当然だった。
妹とはいえその女は、10年前羅紗姫を丹波まで送り届けた時の恩人であるお通に生き写しだったのである。
「新しく世話役に雇われたという奥方様か……」
「は、はい、菊と申します。よろしくお願い致します」
「ふうん、ただの武家の奥方には思えないが……」
鷹の冷徹な目が伊織をじっと見つめる。
「ふふ、あんたも心配性だねえ」
鷹の後ろから含み笑いのお竜が姿を現わした。
「あたしたちはもう、仲間内の契りをたっぷりと結んでるんだよ。あんたは荷の心配をしてりゃいいのさ」
見ればその両手に布巾を被せた膳を抱えている。
「私もお手伝いさせていただきます」
そう申し出た伊織にお竜は首を横に振った。
「もうだいぶ咲さんに慣れて、飯も食べるようになってね。朝は作り置きをあたしが届けてるのさ。あんたは顔合わせに、お昼と夜を咲さんと一緒に届けておくれ。あたしゃこの後、荷捌き場の治めに出るからね」
「あ、はい……、わかりました」
伊織はあえて何も言葉を返さなかった。
午後に事を起こす前に、要らぬ波風を立てるのは得策ではないと思ったからである。
「じゃあ、頼んだよ」
そう言い残してお竜が座敷を出た後も、鷹の冷たい眼差しは伊織に向けられたままだった。
「あんた何処の出だい?」
「は、はい、わたしはその、江戸の生まれです」
「ふうん……。で、旦那のお勤めでこの丹後に?」
「はい……」
「ふん」
鷹の視線が伊織の全身を舐めた。
「あんた武芸のたしなみがあるね?」
「え……?」
「とぼけても無駄だよ。さっき初めて視線を合わせた時、確かにあんたから気を感じた」
伊織は不安を隠したまま、鷹に向かって顔を和らげた。
「お恥ずかしゅうございます。亡き父が、女といえども護身程度はと稽古をつけてくださいました」
鷹の目が伊織の左手の親指に注がれる。
「護身程度……? しかしあんた真剣を……」
「鷹、出かけるよ!」
その時表から鷹に向けて仲間の声がかかった。
「ふん、じゃあまた話を聞こう」
そう言い残して鷹の背中が表に消えた時、伊織は胸の奥から大きな息を吐いた。
コメント一覧
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1. Mikiko- 2017/07/20 07:54
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「あんた武芸のたしなみがあるね」
これで思い出すのは……。
やはり、『俵星玄蕃』。
蕎麦屋に身をやつした杉野十平次と俵星玄蕃。
蕎麦屋の手に竹刀だこを見た玄蕃は……。
「貴様、侍だな」
しかし、それ以上の追求はしません。
武士が蕎麦屋に扮するからには、よほどの事情があるはず。
やがて、2人には友情が芽生えます。
それでは、聞きましょう。
三波春夫先生、『俵星玄蕃』。
↓フルバージョンです。
https://www.youtube.com/watch?v=fnX1vD0TBJU
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2. ハーレクイン- 2017/07/20 17:43
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>丹波と丹後の長い付き合い
『アイリス』の脇役、小野道代は丹波。同じく小まめの志摩子は丹後の出です(と、恥知らずの番宣)。
俵戊子現場監督
杉野十平次は実在しました(たぶん)が、俵星は架空の人物だそうです。
♪槍は錆びても此の名は錆びぬ
男玄蕃の心意気
…………
♪姿そば屋にやつしてもまでも
忍ぶ杉野よ切なかろ
…………
〽俵弾正鍛えたる九尺の手槍を右の手に
切戸を開けて一足表に踏み出せば
天は幽暗 地は凱凱たる白雪を蹴立てて
行く手は松坂町
…………
♪打てや響けや山鹿の太鼓
月も夜空に冴え渡る
夢と聞きつつ両国の
橋のたもとで雪踏みしめた
槍に玄蕃の涙が光る
全部やりたかったんだけどね、これくらいで勘弁してやる。
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3. Mikiko- 2017/07/20 19:56
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丹後
ものすごい暑さです。
豊岡市で、37度。
明日もこのくらいだそうです。
コウノトリ、干からびてませんかね?
こう暑いと……。
討ち入りのころの寒さが恋しくなります。
今日は、『俵星玄蕃』を聞いて、涼むことにしましょう。
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4. ハーレクイン- 2017/07/20 23:17
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猛暑
わたしは例年、梅雨明け前はエアコン(クーラー)は付けないんですが、今年は数日前から点けています。
と云っても、こちらは昨日「梅雨明け宣言」が出ましたけど。
まったく暑い。
夕方の天気予報では、明日、こちらの予想最高気温は37度。体温より高いよ。全国最高気温中、最高だったかな(変な日本語)。
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5. Mikiko- 2017/07/21 07:25
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エアコン
必ず、点けるようにしましょう。
わたしは、寝てる間も点けてます。
設定温度は、28度。
夏前にこの温度だったら、たぶん暑くて眠れなかったと思います。
でも今は、十分涼しく感じ、朝まで安眠できます。
身体が、暑さに慣れてきたということでしょうか。
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6. ハーレクイン- 2017/07/21 12:03
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現在のわたしの室内気温
32.2度です。ただし、我が家の温度計は風呂の水温計の流用ですから、数値はさほどあてになりません。
昨日までは、30度を超えると耐え切れずにエアコンをつけてましたが、今日はそうでもありません。体が暑さに慣れてきたのでしょう。
窓をすべて開け放し、扇風機だけで過ごしています。
昨夜は、眠り始めだけエアコンをつけ、タイマーで1時間後に消しましたが、朝まで眠れました。窓は開けたままでした。
今夜はどうするかなあ。
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7. Mikiko- 2017/07/21 19:39
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慣れてきたのではなく……
感覚が鈍くなってきたのでは?
32度の室内で暑さを感じないのは、危険な兆候だと思います。
即身仏になりますよ。
今夜の大阪は熱帯夜でしょう。
エアコンはタイマーで切るより……。
高めの設定温度で点けっぱなしの方が良いと思います。
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8. ハーレクイン- 2017/07/21 22:18
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32度
感じないわけではありません。
暑いに決まっております。
〽じっと我慢の子であった……
>点けっぱなし
脱ぎっぱなし、ヤリっぱなし。
何事も、「ぱなし」はいけません。
きちんと責任は取りましょう(なんのこっちゃ)。