2017.4.11(火)
ほんの一尺程ではあるが、北の兵部卿宮(ひょうぶのきょうのみや)によって開けられた引き戸の隙間から風が吹き込んだ。戸外の、夜半の嵯峨野の風は斎王恭子(のりこ)の体を軽く嬲(なぶ)って過ぎた。
恭子は身を竦めた。
さほど寒かったわけではない。
その嵯峨野の風は恭子の身の内を、その心の内を吹き過ぎた。恭子の心身を掻き乱し乍(なが)ら通り過ぎて行った。
(恭子よ)
(いかに、恭子よ)
(斎王恭子よ)
(いかに)
(いかにしたきと思うてか)
恭子は、その首を軽く左右に振った。
幽かな、なよやかな、恭子自身にしかわからぬ動きであった。
少し離れて座す兵部卿には、部屋の仄(ほの)暗さも相俟(あいま)って、見ては取れぬ恭子の動きであった。
恭子は声を改め、兵部を促した。
「兵部どの。いつまでそこにおらずと、こちらに入られよ。そのままでは人目に付こう。風も入るしのう」
「は、ではご無礼して」
兵部卿宮(ひょうぶのきょうのみや)は、恭子(のりこ)の室内に躙(にじ)り入り、開いていた板戸を閉じた。
灯りの無い、仄(ほの)暗い室内が更に暗くなった。辛うじて、人の表情が判別できる程度の明るさであった。
兵部卿は、夜具の上に座している恭子から、一間(いっけん)程の間を置いて座した。正座である。狩衣と、下には袴を着けている。上体を軽く前に傾(かし)げ、僅かに下げたその視線の先は恭子の膝の辺りにあった。
「兵部どの」
「は」
「構わぬ、お楽にされよ」
「は、いや、これで……」
恭子はそれ以上は勧めず、一呼吸を置いて声を改めた。
「ご覧になられたか、先ほどのわたくし(私)の浅ましき姿を」
「拝見、仕(つかまつ)り申した」
「いつからじゃ」
「そう……ひめみこ(皇女)様が夜具を撥ね除けられた、そのあたりからでございましたか」
「何故、声を掛けられなんだ」
「それは……お邪魔申し上げては、と」
「で、声も掛けずに見ておられたと」
「されば」
「人のお悪い。わたくし奴(め)が浅ましく、無様(ぶざま)な振る舞い。嗤おうとてか」
恭子(のりこ)の頬に軽く血が昇ったが、無論兵部卿(ひょうぶのきょう)に見て取れるはずもなかった。
恭子の声は小さく、掠れてはいたが、震えはいささかも無かった。
兵部卿の声も、恭子と同様に囁くほどの大きさであったが、こちらは些(いささ)か熱を帯びてきたようにも聞こえた。
「なんの無様どころか、浅ましきどころか、天女の舞いとお見受け申した。嗤うなど」
「そのようにお嬲(なぶ)りになるがよろしかろう」
「嬲るなどと……ひめみこ(皇女)様を嬲るなど、恐れ多い」
斎王恭子と、北の兵部卿宮。
二人の遣り取りは、これまで見(まみ)えることの叶わなかった二年(ふたとせ)余りの年月(としつき)を一気に埋め、その過ぎし日々、何の憂いもなく相見(あいまみ)えていた頃のものに戻って行った。
二年……皇女恭子が卜占により斎王に選定され、宮中で、そしてここ嵯峨野野宮(ののみや)で過ごした精進潔斎の日々である。
その間恭子は、侍る女官以外は、身内親族、知己の誰一人とも顔を合わせることは無かった。その精進潔斎は、俗人恭子としての身を捨て、神の下部(しもべ)斎王に変わろうという日々であった。
儚い生き物の例えとして引かれる蜉蝣(かげろう)。
透き通る翅、華奢(きゃしゃ)な体躯。弱々しげな姿態の、人の指先ほどの大きさのこの昆虫は卵から孵化して後、幼虫、亜成虫を経て成虫へと形態を変えてゆく。そして、成虫の寿命はわずか一日。
朝に生まれ夕にはその生を終える、ということから付けられたのが蜉蝣のギリシャ名、ephemera(エフェメラ)である。その意は「その日一日」……。
恭子は今、幼虫なのであろうか。それとも亜成虫か。そして成虫、斎王に変わろうとしているのであろうか。
そして……。
恭子(のりこ)は、兵部卿(ひょうぶのきょう)の言葉を遮るように話題を変えた。
「兵部どの」
「は」
「わたくし(私)は既に『ひめ』には非ず、斎王じゃ」
兵部は頭を下げ、恭子に応えた。
「ご無礼を申し上げました、斎王さま」
北の兵部卿宮。
斎王恭子の幼馴染にして想い人には、なんの悪びれる風もなかった。
「で……」
なに用じゃ、と問いかけようとし、恭子は訝(いぶか)しげに口を噤んだ。
嵯峨野竹林の只中に建つ斎王の聖域、野宮神社。斎王恭子の居室はその一棟である。
今は長月の八日。いや、明けて九日になったろうか。
上弦の弓張り月は大きく西に傾いたか、あるいは既に没したか。野宮の上空にはもはや無い。
夜半、星明りのみの野宮の、さらに戸を閉(た)て切った恭子の居室内。向かい合って座す二人には、互いの表情すら定かでないほど仄(ほの)暗かった。
だが恭子には、端然と座し微動だにしていないはずの兵部の姿が、少し大きくなって見えた。
(気のせいか)
(いや……)
見詰める恭子の視線の先、仄暗い室内にあって白く浮かぶ狩衣姿の人影が、微かに揺らいだ。揺らいで、こちらに迫ると見えた。
(気のせいではない)
兵部は正座のまま軽く腰を浮かし、床に突いた膝で躙(にじ)り寄って来るのだ。一膝、二膝……膝行(しっこう)である。さらに一膝……。
恭子は、小さいが強い声を掛けた。
「動くでない!」
兵部は、見えない壁に行き当たったように動きを止めた。
その様は、叱咤された子猫が身を竦(すく)めたように見え、恭子は内心で微笑んだ。
(可愛や)
一呼吸おいて恭子(のりこ)は声を改めた。その声には内心の思いの色は微塵も無い。恭子のその、小さいが強い意志を込めた音声(おんじょう))は、今居る嵯峨野の秋風、いや、凍てつく京の冬枯れの原を吹き渡る風かと思わせる音色であった。
「それ以上は動かれるな、兵部どの」
「は……」
恭子は、先ほどの問いを兵部に掛けた。投げ付ける様な……それは詰問であった。
「で、なに用じゃ。北の、兵部(ひょうぶ)の、卿の……宮、どの」
略すことなく、そして極め付けるように、敢えて短く区切りながら男の名を呼ぶ恭子であった。
「は……」
気圧(けお)されたか、言葉の出ない兵部であった。
恭子の声音(こわね)が冷たくなった。
「なに用じゃと問うておる」
「………」
「斯様(かよう)な夜更け、斯様な処へ……」
「………」
「用も無しにわざわざ来られたか」
「………」
「茶飲み話でもされようとてか」
俯けていた兵部の顔が上がった。その視線が恭子の視線と正面からぶつかり、絡み合った。
だが、それでも言葉の出ない兵部であった。
「明日は旅発つ我(われ)ぞ」
「………」
「こう見えて、成しておかねばならぬことがまだ多くある。無聊を持て余しておる、というわけではないのじゃ」
恭子(のりこ)は、意気地のない男を嬲(なぶ)るように、皮肉をたっぷり乗せて畳み掛けた。それでも兵部(ひょうぶ)は言葉が出ない。
「………」
恭子の声は更に冷たく、聞く者の耳には、凍て切った氷の立てる音かと聞こえた。
「用、無くば……早々に立ち去られよ」
兵部の顔が激しい勢いで跳ね上がった。兵部は、その目で恭子の視線を捉え、手繰り寄せる。その兵部の視線は、恭子を絡め取ろうとする縄かと思われた。
コメント一覧
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1. 難波宮ハーレクイン- 2017/04/11 10:49
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↑おいおい
戯曲『センセイのリュック』幕間『アイリスの匣』京都嵯峨野編野宮神社の場
現在の拙作に表題をつけますと、↑このようになります。
「長すぎ! タイトルは簡潔に」というのは他でもございません、わたくしめが常々書いているところですが「人を呪わば穴二つ」「天に唾すりゃ我が身に返る」。昔のお方はええこと言わはりました。
がまあしかし、今更引っ込みもつきません。このままでご勘弁願いましょう。
閑話休題(昨日からこれ、気に入ってるんですよ)。
ほんのちょっとした気の迷いから、なんと平安時代に迷い込んでしまいました『アイリス』。
当時の世相・習俗なんぞなーんにも知りません。高校の日本史で習ってるはずなんですが、そんなものは〽忘却とは忘れ去ることなり、です。
特に服飾。
姫様方の十二単衣は常識のようですが、これもどうも怪しいようです。まだ手元に持っていた『日本史図説』なんてのを参考にしていますが、動画なんぞは無論ありません。
兵部の野郎の『狩衣』だけはまあ、言葉だけでも、の儚い抵抗?ですね。
ということでございまして、場面は夜のエッチシーンに限定。そそくさと済ませて現代、と申しますか小まめ時間(昭和30年代とお考えください)に戻りたいと思います。
あ、もう一つ。
今回、兵部の野郎が『正座』していますが、無論当時の男の座り方は『胡坐(これも現代とは少し異なるようです)』ですね。それを敢えて正座にしましたのは、兵部が斎王恭子に、座したままじわりと近寄る。これをやりやすくしてやりたいという、兵部への親心?なんですね。
そのあたり、ご寛恕願いたいと思います。
『アイリス斎王編』。
ボロが出ないうちに(とっくに出てたりして)早々に撤退する所存です。暫くお付き合いお願い申し上げます。
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2. Mikiko- 2017/04/11 19:54
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狩衣
平安時代以降の公家の普段着だそうです。
もともとは狩の時に着用したので、この名前がつきましたが……。
活動的であることから、次第に普段着として定着したとのこと。
ただし、狩衣姿での参内(御所への出入り)は一切認められなかったそうです。
斎王のいる野宮に行くには、カジュアルすぎる気もしますが……。
忍んで行くのに正装はできんでしょうから、仕方ありませんね。
狩衣の画像を見ると、ちっとも活動的に見えません。
こんなんで狩りなんて出来たんですかね。
時代はかなり下りますが、軽衫(かるさん)というズボンは楽そうです。
池波正太郎『剣客商売』の中で、秋山小兵衛が穿いてます。
作務衣より、格好いいと思います。
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3. 何を着ても不活動HQ- 2017/04/11 22:14
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活動に不向き
狩衣(かりぎぬ)。
名称は実に活動的なんですがね。見かけは何やら“もこもこ”で、狩衣姿のおっさんに捕まるキツネやタヌキがいるとは到底思えません。
ただまあ、狩専用の衣服というわけでもなく普段着だったようで、狩衣での参内は禁止、は納得です。威儀もへったくれもありません、狩衣。
平安服飾参考図をもう一つ発見。高校の時に使っていた古語辞典です。
と云いましても、手のひらサイズの小辞典(角川書店発行、定価600円)ですから大したことは無いのですが、巻末の「参考資料」の中に『服飾図』というのがありました。
これを見ますと、狩衣に限らずどれもこれも“もこもこ”。最たるものは無論、姫さんの十二単、正式には唐衣裳(からぎぬも)です。
他のも、これほどではありませんが似たり寄ったりの“もこもこ”ぶり。活動的かな、と見えるのは庶民の直垂(ひたたれ)くらいです。
まあそうは云いいましても、狩衣は比較的ましなようで、女性の寝所に夜這いを掛けようという男には適しているかもしれません。
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4. Mikiko- 2017/04/12 07:27
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古語辞典
本棚を探したら、なんと4冊もありました。
古語大辞典が、1冊。
古語類語辞典が、1冊。
あとの2冊が、ハンディタイプの辞典。
なんでこんなにあるんですかね?
奥付を見ると、いずれも社会人になってから買ったものでした。
短歌をやってたころでしょうかね。
服装の解説、巻末にありました。
小袿(こうちぎ)、重ね衵(かさねあこめ)、被衣(かづき)、u67b2;の垂れ衣(むしのたれぎぬ)。
そして、女房装束(にょうぼうしょうぞく)。
これが俗に言う、十二単(じゅうにひとえ)でした。
古語辞典、久しぶりに触って、懐かしかったです。
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5. 大里芋被衣HQ- 2017/04/12 11:45
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↑意味不明
古語大辞典
「大」はすごいですね、わたしは見たことすらありません。
生物と英語は、デカいのも持ってるんだけど、この頃は重いので敬遠してます。あ、広辞苑もパソに内蔵のんだけですね。
被衣(かづき)ときますと……
きぬ(衣)かつぎ。
里芋を皮ごと蒸しただけのシンプルな料理で、秋酒のアテですね。
皮を剥いて煮ても結構なものですが、わたしは皮剥きが面倒なのでパス。
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6. Mikiko- 2017/04/12 19:46
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大辞典
持ち歩き、不可能です。
広辞苑も持ってますが、最近開いた記憶がありません。
昔、片手で持ちあげようとして、手首をくじいたことがあります。
衣かつぎ。
たぶん、食べたことがないと思われます。
手で摘まむには、皮が付いてた方がいいでしょう。
塩で食べるのが美味しそうです。
今秋の課題とします。
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7. 辞書かつぎHQ- 2017/04/12 22:31
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持ち上げ広辞苑
重さもそうですが、あの分厚さがねえ。両手で持って、開いて、なんて不可能。机上に置くしかないのでまあ、場所ふさぎなこと。
現在、ほとんど“書棚の飾り”状態です。
パソ内蔵のは便利だなあ。
衣かつぎ
蒸す前に、芋の中ほどあたりで、皮にぐるっと1廻りの切れ目を入れておきます。蒸し上がると、切れ目から上の皮を、帽子を脱がせるように、ぱかっと簡単に外せます。つまり、剥く手間いらず。
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8. Mikiko- 2017/04/13 07:24
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広辞苑
値段が高すぎる。
普通版で、8,640円。
DVD版は、なんと、10,800円です。
なんで、DVDの方が高いんです?
製造原価は、はるかに安いでしょ。
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9. 持てるのは……HQ- 2017/04/13 08:43
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↑文庫本だけ
重いぞ高いぞ広辞苑
わたしのは第四版で6,500円(税込み)、重量は2,300gです。
DVDが高いのは「使い勝手」代が上乗せされているのでは。私のパソ内蔵の値段は無論不明です。
まあしかし、今どき「本が高い」と言ってもなあ。文庫本1冊が1,000以上する時代です。
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10. Mikiko- 2017/04/13 20:05
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現在は……
お金を出して、辞書を買う必要はなくなりました。
ネット検索すれば、大抵のことはわかります。
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11. ネット検索HQ- 2017/04/14 03:37
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そのとお~り
↑財津一郎で
いずれ、本や活字なんてえのがなくなる。そんな時代が来る……かな。
書物を禁じられた世界を描いたのはレイ・ブラッドベリ『華氏491度』。これは紙が燃え始める温度だそうで、摂氏でいうとおよそ233℃。
『華氏……』傑作です、映画化もされました。
同じ発想の小説が、有川浩『図書館戦争』シリーズ。
こちらも映画になりました。ヒロインを演じたのは、どデカ娘(もう「娘」じゃないけど)の榮倉奈々。